Q. よっきーさんからの疑問
以前からずっと疑問に思っていたのは、豊臣秀吉のことです。
秀吉は豊臣性を名乗る前に「羽柴筑前守」と呼ばれていたと記憶していますが、この「〜守」というのは、何かのランク付けなのでしょうか?
また、秀吉は筑前守を名乗っていたときに、筑前とは関係なかったのでは?
他の武将も、その武将自身に縁もゆかりもないような地方の官職が付いていることがありますが、何か意味があるのでしょうか?
A. はんざきさんから
「守」というのは、国司に付く官職名です。国司の中でもランクがあり、
守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)
の順で地位が高い。
国司は、漢字からもわかるように、国を治める統治者のことです。
筑前は今の福岡県ですから、豊臣秀吉は約500年前の福岡県知事(すこし異なりますが)だったんですね。筑前守と呼ばれていたのはこのようなわけからです。
A. やまぐりさんから
日本の官位については、鎌倉以降〜明治に太政官制がひかれるまでは、朝廷から授けられた官位名が正式な称号です。
ところが戦国期になると、官位を自分勝手に名乗るようになって混乱します。そのため正式に官位をもらっている主君より、上位の官位名を名乗る家臣がいるわけです。江戸時代になって諸法度により、官位名を勝手に名乗ることが禁じられて整理されましたが……。
官位の格付けについては、有職故実の話であるので詳しいことは古語辞典の「位と官職の表」に載っています。
今回の「〜〜守」のことに限ると、「〜〜守」には、本来、大国・上国・中国・小国の格付けがあり、また、それぞれの中においても領国の広さや都からの距離などによって格付けが決まっていました。
ところが、特に戦国期においては、実効支配にお墨付きを得る一つとして、「地元由来の官職名の授与を狙っての朝廷への献上や付け届け等の運動」もあったので、たとえば、「地元由来ではない高位の官職名なんぞより、地元由来の下位の官職名を尊ぶ」ということもあったようです。このようにして、近隣の大名・小名に対して覇権を取っていったのです。その結果、先に述べたような官職名からいえば、一種の混乱が生じたわけです。
ところが、江戸期になると、有職故実に基づいた格付けにより、官位や官職名の称号は幕府によって管理され、それは、大名・旗本の序列として利用されました。江戸城の着座位置をはじめ、大名同士の競争を煽ったりするのに使われたりしています。「〜〜守」をはじめとする官位や官職名は、大名・旗本の統制手段の一つとなったのです。
おおざっぱにいって上記のような変化をとげています。
A. ひよこさんから
この「守」は、奈良時代にできあがった「四等官制」という制度に基づいて決められた、国のいちばん偉い人につけられたものです。
ちなみに、中央の省の長官は同じく「かみ」と読みますが、「卿」と表記します。したがって、「卿」という字を見ただけでその人は中央の役人とわかるわけです。
ただ、戦国時代にはこの四等官制は飾りのようなもので、一説によると、羽柴秀吉は自分で希望して「筑前守」なったとか……?
A. ZACさんから
「○○守」などは、奈良時代の律令制による官職です。
奈良時代、平安時代(前期)においては、「筑前守」なら筑前の国府に赴任してそこで仕事をしていたのです。ところが、律令制が崩壊してくると、それらの官職は、身分の高さを表す称号に近いものになってしまったということです。言い換えれば、朝廷の権威は残っているので律令制上の官職は残ったが、実権がないので実体はない、ということです。
律令制では、身分の高さを表す官位(正一位とか従三位とか従五位下など)と職務内容を表す官職(太政大臣とか中納言とか筑前守など)があり、官位(身分)によって就ける官職が決められていたわけです。従一位なら太政大臣になれるとか従四位なら中納言になれるとかというようになっています。日本史の参考書などにはこれらの対照表が載っています。
で、戦国時代になると、元来、身分が低い者が実力を持つようになるのですが、戦国大名は、たまに、実権のない朝廷に献金したりします。それは、官位や官職をもらって、はったりを効かしたり、実権を権威的に裏付けようとしたり、身分コンプレックスを解消したりという理由からだと考えられています。
たとえば、中国・北九州に勢力を持っていた大内氏は、かつての太宰府の長であった武藤氏(少弐氏)を追い落とし、九州北部の実権を握ったとき、それを権威づけようとして、少弐より上の官職である大弐に任命されようと朝廷に働きかけたことがあり実現させたことがあります。この大内氏の例は実権と官職が一致している例ですが、ほとんどの場合、単に身分を飾るだけの意味ですから、適当な官位と官職をもらったのです。
豊臣政権になると、秀吉は律令制におけるトップである関白となり、弟の秀長と徳川家康は大納言とし、その他の大名を適当に官位官職を与え(形式的には朝廷が与え)、大名の格付けをしたのです。
この方式は、江戸幕府にも受け継がれます。石高だけでは親藩、譜代、外様により差があるので必ずしも明確ではない格付けが、この実質的には意味がない官位官職で整理されていたといえるでしょう。
ちなみに、各幕府の最高位である将軍の、正式名称は、征夷大将軍であり、これも律令制上の官職(武官なのでたいして偉くない)です。蝦夷を征伐する大将軍という意味で、実際に蝦夷征伐を行った武官では、坂上田村麻呂や文室綿麻呂が有名です。
この官職に相当する官位は低いですが、江戸幕府の将軍の場合、征夷大将軍のほかに、太政大臣(家康、秀忠、家斉)や内大臣の官職を持っていますので、格は他の大名より上です。
ちなみに、「水戸黄門」の第1部の頃は、
「前の中納言、水戸光圀公であらせられるぞ」
と言っていたと思います。水戸家は代々正四位か従四位で権中納言に任じられていたと思います。
A. ぽこにゃんさんから
曖昧な記憶でもいいんでしょうか。本当ならきちんと調べてから書くべきなんでしょうが……。
「〜守」というのは数ある官位のうちの一つです。十位から一位まであって、それぞれの位は正と従によって「正五位」「従五位」のように分かれています。
さらに、正と従はそれぞれ上と下からなり、たとえば「正五位上(官位名)」という風にして表します。「〜守」は筑前だけでなく、当時の国、全部の数だけあります。
官位というのは大名が朝廷から拝領するもので、持っていることで権限のようなものこそありませんが、要するに格好がつくわけです。宮中での扱いも変わるでしょうし。当然大名は上位の官位を望むわけですが、複数の官位を拝領した場合、大名本人は最上位の官位を名乗るので、下位の官位は家臣に褒美としてやることができます。
秀吉もこの類(信長に褒美でもらった)と思われます。ただ大名の中には、朝廷から認められていないにも関わらず、その大名家中のみで勝手に官位を家臣に名乗らせることもあったようで、偽者も多かったようです。
最後に、最上位、正一位征夷大将軍に任ぜられると、晴れて幕府を開くことができるわけですが、当時、戦国時代には「源平交代思想」というのがあり、源氏と平氏が交代で天下をとると考えられていました。
源頼朝(源)→北条氏(平)→足利氏(源)と天下が動いて、次に天下に最も近かった信長は平氏を名乗りました。源氏の足利氏の次に天下をとるには平氏である必要性があったわけです。
(この源氏、平氏というのもほとんどの大名が眉唾ものです。途中で勝手に名乗ることがほとんどでした。)
ところが信長が突然死んでしまいました。事実上跡を継いだ秀吉は順番から見て、源氏を名乗るべきだったのですが、間違って平氏を名乗ってしまいました。結果、朝廷から拝領した官位は「太閤」でした。ですから秀吉は幕府を開けなかったのです。その後源氏を名乗った家康が幕府を開き、260年に渡る徳川の時代を築いたのは周知のことです。
長文になり、しかもかなりアバウトですが参考になれば幸いです。
★みなさん、ご協力ありがとうございます。
ところが、よくよく読んでみると、各回答の間で、説が少々異なるところが発見されます。もしかしたら、他にも「間違い」があるかもしれません。
私でチェックできればよいのですが、その能力も資料も足りません。
そういった点をご了承の上、お読みいただけると幸いです。(星田)
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