Q. QBさんからの疑問
「1999年に恐怖の大王が降ってくる」って予言もありましたけど、そもそも、西暦って誰が最初に数え始めたんでしょう?
実は、数え間違えてたってこと、あるんでしょうか?
★大変よい疑問だと思います。歴史の先生は、絶対に知っておく必要があると思います。(星田)
A. QuteBishaさんから
525年、ローマの大修道院長ディオニシウス・エクシグヌスがキリストが生まれた年を元年とするキリスト紀元(現在の西暦)を考案したと聞いています。
情報ソースは忘れてしまいました。
A. ルネぞうさんから
そもそも、西暦の定義からして問題なのですが。
単純にA.D.のことなのか、それとも暦法の、グレゴリオ暦なのかによって答えが変わってきます。
まずは、A.D.からいきましょうか。
A.D.はラテン語の「Anno Domini」の略。意味は「主の御託身から〜」。この場合主はイエスですね。で、キリスト生誕の年(実際は四年ほどさかのぼるのですが)をA.D.1年とした暦です。使用開始は10世紀から。963年にローマ教皇が使用の提称をしたそうです。
これに対する言葉でB.C.がありますが、これは「Before
Christ」、「キリスト以前」の略ですね。これは意外と新しく使用開始はなんと17〜8世紀のことです。
なんだかんだって、宗教的な対立が多く、暦決めるにしてもあっちの宗派とこっちの宗派でおおもめにもめることがすくなくなかったそうなので、国によっても採用の時期がかなり異なります。おかげで歴史学者は暦を直すのが大変なことになりました。この辺は、ほかの疑問に述べられていた「『今日は何の日?』は、暦の違いをどうやって補正しているの?」でも述べられていますね。
で、暦法の始まりですが、以下のページに詳しいので解説は譲ります
http://ecows.econ.niigata-u.ac.jp/~neo-luna/moonlight/index.htm
A. はんざきさんから
キリストが誕生した年を第1年とする紀年法ですね。
提案者はディオニュシウス・エクシグウス(西暦550年頃没した、神学者・年代学者)
だといわれています。
なぜ、提案をしたかというと、当時ローマではキリスト教の迫害者として有名なローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位284〜305)の即位紀元を使用していたのが、キリスト教徒にとって不都合なものだったからです。
しかし新紀元が使用されるようになったのは10世紀から、しかもヨーロッパの一部でです。
紀元元年=キリスト誕生の年ではないようで、5年ほど昔に遡ると考えられているんだそうです。
ついでに、西暦年数を表す「A.D.」は「神の年」Anno
Domini の略。西暦前は「キリスト誕生以前」
before Christ で「B.C.」です。
A. 館 淳一さんから http://rimnesia.gaiax.com/home/jun_1
「西暦紀年は誰が考案したのか?」という問題について、かつてぼくのホーム
ページBBSで書いたものを抜粋します。
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西暦、いわゆるキリスト紀元による紀年法とは、どうやって成立したのか?キリスト紀元が考案されたのは、6世紀のことだ。もちろん当時は6世紀という考えかたはなく、キリスト教徒が占める西欧世界ではディオクレティアヌス(皇帝)紀元というものを用いていた。この皇帝が即位したのは、西暦で284年だ。6世紀に突入した西暦501年は、すなわちディオクレティアヌス暦217年ということになる。
ところが、このディオクレティアヌス帝というのは、晩年、キリスト教徒に対して強烈な迫害を行なった。ヒトラーがユダヤ民族絶滅を謀ったように、彼はキリスト教徒の絶滅を謀ったのだ(もちろん成功しなかったが)。
だから、6世紀当時のキリスト教徒の間にディオクレティアヌス紀元は「ふさわしくない」という思いを抱くものがすくなくなかった。キリスト教徒にはキリスト教徒独自の紀年法が必要だという考えかたが強くなってきた。
その勢いで「おれがキリスト教徒の紀年法を作ってやる」と考えたのが、修道僧で神学者のディオニシウス・エクシグスだった。
彼は525年に著した『復活祭の書』という書物で、キリストの生誕を元年とする紀年法を提唱した。このディオニシウス紀元では、キリストの誕生はローマ建国紀元(753B.C.を元年とする)の754年と置いた。これが現在使われている西暦の、年の積み重ねを計る物差しの最初の基点となった。すなわち西暦1年である。
では、ディオニシウスはどういう根拠で、ローマ建国紀元754年をキリスト生誕の年としたのであろうか?
その根拠は、当時、聖書研究者の間では、キリストが30歳で死んだと信じられていたからである(聖書のなかにはその既述は無い)。さらに、聖書では、キリストの復活した日付を、ユダヤ暦でニサン(第一の)の月の15日にあたる、としている。これはユリウス暦では3月25日にあたる。そういう記述から推算して、彼はいまの西暦1年を決めたわけだ。
この紀年法はしだいに西欧キリスト教社会に受け入れられ、9世紀頃には他の紀年法を圧倒して普及するようになった。実際の記録として現在に残っているのは、
『教皇ザカリアスの7年、コンスタンティアヌス帝によるインディクションの第5年、748年における11月の第5日の前2日にヨアニス・スクリマウスによって書かれたる』
という記述だという。つまり8世紀の半ばの文書。
やがては教会がそれを公認するようになり、西欧キリスト教社会は「キリスト紀元=ディオニシウス紀元」で歴史を記述するようになった。これが西暦という年を計る物差しの起源である。
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