--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.313 (2003.11.13)

Q. キキキのゲ太郎からの疑問

「一部始終」という言葉がありますが、「始めから終わりまで全部」という意味なのに、どうして「一部」始終なのでしょうか? 「全部始終」というほうが正しいと思うのですが。

回答が届くかどうか、心配な疑問です。みなさんなりの理解の仕方を送ってください。(星田)


A. CHARADEさんから

「一部」というのは「一部分」のことではありません。「一部の(一冊の)本の始めから終わりまで」という意味です。

A. だいてんさんから

「一部」って、確かに「全部」に対する言葉でもありますけど、新聞や雑誌などを数えるときに1部、2部、なんていい方もしますよね。「一部始終」の「一部」は、そっちの意味の一部なんだと思いますよ。
 1つの事件(一部)を最初から最後まで、って考えれば、「一部始終」でよさそうな気がします。

A. maroさんから

 国語辞典に拠れば、「一部」という言葉には、「全体の中の部分」という意味の他に、「(書物などの)ひとまとまり・一冊」という意味があります。
 だから、「一部始終」は、「ストーリー一冊分丸ごと全部」という意味になるんでしょう。

A. うねめずさんから

 みなさんは「一杯」なる言葉をどのように使用するでしょうか。

・一つの杯を単位として、コーヒーなどを一杯、二杯と数える
・一つの杯を全体とみなして、それが満たされると一杯(いっぱい)とする

 無意識にこの二通りに解釈しているはずです。この後者の場合と同じように考えれば、納得がいくでしょう?
 あと、「一部」はもう一つ、「一部分」にも解釈が出来ます。この意味を示すのによく使われる語であるために、今回のような疑問が出て来てしまうのです。
 言葉への疑問というのは、考えていると非常に楽しいですね。

A. 鏡 京太郎さんから

 それは、日本語の意味が時代によって変化するためです。
 また、日本語の特に、四字熟語は漢字であることから、その出所のほとんどが経典(分かりやすく言えば「お経」です)が元であることから、仏教の思想を色濃く反映していることが考えられるからなのです。なんせ、日本は昔から代表的な仏教国ですから。
 たとえば、普通の日本語である「今日」は、「現在」とか「本日」という意味で当たり前に使われてますが、これは、仏教的に言いますとそうではありません。本来、「今日」とは、仏教を説いた歴史で習ったと思いますが、「釈迦」が生きていた時代、時間を指す言葉でした。分かりやすく言えば、釈迦が生まれて死ぬまでの時間が、「今日」という言葉の意味だったのです。
 また、さらに例を挙げれば、これは純粋な日本語ですが、「当時」という言葉にも、それが当てはまります。
「当時」という言葉は現在では「かつてその時代」という意味に使われていますが、鎌倉時代くらいまでは、「現在」という意味の言葉でした。それは「当面」や「当分」という言葉は、今でも現在の時間のことを意味していることから理解してもらいたいのですが、この、「当時」だけは意味が変わってしまったのです。ですので、イメージとして、「当時」は「今の時」という意味であった時代があったことは、理解してもらえると思います。
 さて、それでは本題に入りましょう。なぜ、「一部始終」なのか。
 それは、「一部」という言葉は本来「全部」に似た意味の言葉と言えたからです。これも、仏教に深く関わってきます。
 本来「一部」という意味は、分かりやすく言えば「全巻」の意味でした。それは、釈迦の言葉を書いた「経文」が由来なんです。
 ここで、法華経という経文を挙げて説明したいと思います。法華経は、「一部八巻二十八品」からなっています。こういうと、全くなんのことかさっぱり分かりませんね(-^〇^-)
 分かりやすく言えば、この法華経という経文を、現在の出版物で言えば「漫画」と思ってください。どんなものでも結構です。たとえば『ドラゴンボール』なら全42巻あります。そして、各巻ごとの各話に「題名」がついています。ですので、この42巻がドラゴンボールの「全部」であり、42巻の各巻は部分であり、更に各話は、その巻の部分です。
 これで理解してもらえると思いますが、「一部八巻二十八品」というのは、

  「一部」→「42巻通して全部」
  「八巻」→「42巻それぞれ」
  「二十八品」→「各巻の各話ひとつひとつ」

ということになるんです。分かってもらえますか? 一部とは「全部」という意味だったんですね。
 では、なぜ「一部」が部分の意味になっていったのか。それはこう推測されます。
 本来、釈迦の教えを説いた経文それぞれを「一部」と言い、その教えを通して「全部」と理解されていたのですが、それは、その「経文」にかぎってのことでした。
 たとえば、「ドラゴンボール」は全42巻で全部ですが、鳥山明氏は、これだけ書いたのではありません。同様に、釈迦が説いた経文はいくつもあり、その説いた多数の教えの「全体」から考えれば、その「一部」は「部分」であると考えられるようになったでしょう。こうして、「一部」は「部分」の意味に変化していったのだと推測されるのです。

ルカさん、赤木さん、ゆたかさん、KS奇跡さん、ゼロ助さん、Deichさん、麻生有美さん、宮坂さん、けんたろさんからも、回答をいただきました。ありがとうございました。