Q. アンギラスさんからの疑問
『背くらべ』の歌の中に、
「柱の傷はおととしの……」
とあります。どうして、昨年じゃないのでしょう?
普通なら、毎年、毎年、背がどれくらい伸びたのかを記録しようと思うはずですが……。昨年の傷は、どうしてないのでしょう? 何か背を計測できなかった特別のドラマでもあったのでしょうか?
気になります。ご存じの方、教えてください。
A. やまおさんから
定期健康診断じゃあるまいし、たまたま、2年前に背くらべをしただけのことではないでしょうか?
毎年毎年の身長測定は、定期健診でやっているはずですよ。
★私も最初はそんなふうに考えていたのですが、たくさん情報が入ってきましたよ。(星田)
A. きくちゃんさんから
それは、きっと、「きょねん」、「いちねんまえ」では調子がよくないからでしょう。「おととし」なら、七五調になりますからね。
じゃあ、「さくねん」でもいいのかってことになりますけど、「昨年」では童謡の歌詞としては改まりすぎで、適さないからではないでしょうか。
★私も、「たまたま」説の次に考えたのがこれでした。今でも、真実はこれじゃないかと思っています。(星田)
A. かいちょさんから
以前、NHKの『名曲アルバム』(だったと思います)で紹介されたときの解説によると……、
歌に出てくる柱は、この曲の作者の実家にあった柱で、この歌で歌われている時期、病気療養のため実家を離れており、柱の傷がない年はたまたま病状が思わしくなく帰省できなかったため、「おととし」の傷と唄われているのだそうです。
A. ゆうきさんから
この曲の作詞者、海野厚さんは、毎年5月5日に実家に帰省していたそうなのですが、ある年、病気で帰省できなかったそうです。そのため、故郷で自分の帰りを待っている弟の気持ちになり、翌年帰ることを想定して書いた……ということだそうです。
しかし残念なことに、彼はその年に結核によって亡くなったそうです。戦前でまだ結核が不治の病といわれていたころです。
A. maroさんから
作詞者「海野厚」さん(1896〜1925)は、七人兄弟の長兄で、毎年5月5日になると帰省し、兄弟姉妹の身長を測っていたそうです。
「あの歌は私たち兄弟姉妹のことを歌った生活記録」
と、後に弟さんが新聞社のインタビューに答えていらっしゃいます。つまり、「測ってくれた兄さん」は、作詞者の海野厚さん自身です。
この詩が発表されたのが1919年。海野さんは学生でした。海野さんは身体が弱く、肺結核のた28歳の若さで亡くなっています。
作曲は、「中山晋平」さん。中山さんは、海野さんの体調が良くないことを知って作曲を急ぎ、海野さんに「2番」も作るよう進言したとの逸話があります。曲が発表されたのは1923年です。
「去年ではなくて一昨年」なのは、「去年は帰省できなかった」からなのだそうです。
「帰省できなかった」理由でもっとも有力なのが、「病気療養のため」とのこと。一般的に有名な説となっているのは……、
既に肺結核を患っており、体調が悪くて帰省できず、翌年帰ることを想定して、故郷で自分の帰りを待っている弟たちの気持ちになって作詞した。しかし、この歌の翌年には入院し、帰らぬ人となった。だから、柱の傷は「おととし」のまま……。
――という「ちょっと悲しい話」なのですが。
詩と曲の発表年に差が有ることを考慮すると、ちょっとマユツバかも。 最近の研究では、
「海野さんが尊敬してる先生が、亡くなったらしくて、その追悼会に出席するために里帰り出来なかった」
という、ごく普通の理由で里帰りできなかったという説があるようです。
A. あっ来たさんから
NHKで番組の合間に童謡等を流すことがありますが、『背くらべ』のときに、ちょうとそのことを紹介しておりました。
この歌の作詞家は海野厚という方で、明治29年(1896年)、静岡県に生まれ、旧制静岡中学から早稲田大学に学んでおります。この詩をつくったのは、海野が早稲田の学生であったときです。
海野は、毎年夏休みや冬休みに帰郷すると、弟たちを柱のそばに立たせて背丈を測ったそうで、この歌の中の「ちまき食べ食べはかってくれた兄さん」は海野本人なんです。
この歌をつくった年は体調が悪くて帰省しなかったため、去年ではなくおととしなのです。
そしてこの『背くらべ』の次の年、大正14年(1925年)には肺結核のため、28才の若さでこの世を去ってしまったのです。
ちなみに、作曲家は『シャボン玉』『証城寺の狸囃子』などの名曲を作曲した中山晋平です。
★フランダースのジョンさん、L・Jさん、とうとうさん、ケンジさんからも、回答をいただきました。ありがとうございました。
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