--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.388(2004.10.04)

Q. ふくろうさんからの疑問

 JR南武線に「久地(くじ)」駅があります。その振り仮名が最初の疑問でした。
「地震」、この振り仮名をつけると、どうして「ぢしん」ではなく「じしん」なのですか? 何か理由があるのでしょうか?
 子どもに教えるとき、「缶詰」は「缶につめる」から「かんづめ」というように教えてきたものです。地震とか地面などはどのように教えればよいのでしょうか? 子どもにわかりやすく教える方法はなにかあるでしょうか? 教えてください。

これは、私も以前から疑問でした。音読みと訓読みの違いが関係しているのではないかと予想していますが、自信はありません。(星田)


A. magicalboyさんから

「地」の読み方はもともと「ち」「じ」しかありませんので、「地」の読みがなは必ず「じ」になります。地震の「地」は「ち」という読み方が濁ったものではなく、もともと「じ」という音読みがあるということです。
 原則として「ぢ」「づ」は読みがなに使いません。
 例外として2つの語が合わさって濁音になった場合は、「ぢ」「づ」を使う場合があります。

  缶詰(かんづめ)→缶(かん)+詰め(つめ)

 また「同音連呼」といって同じ言葉の中で「ち」「つ」が続いて、後ろが濁るときに「ぢ」「づ」を使うものもあります。

  続く(つづく)   縮む(ちぢむ)

 ただし、この例外にも例外があります。

  世界中(せかいじゅう)→世界(せかい)+中(ちゅう)
  稲妻(いなずま)→稲(いな)+妻(つま)

分解してしまうと現代では意味が通じないので、原則にしたがい「じ」「ず」を使うものです。

  世界中→世界の中?? 稲妻→稲の妻??

  同音連呼の例外
    無花果(いちじく)  著しい(いちじるしい)

 これは昔は「いちしるし」といっていたのが濁ったからです。大きな辞典などにはくわしく載っていると思います。

A. なぞなぞすき^^;さんから

「現代仮名遣い」でそういうふうにきまりました^^。文句があれば政府の国語審議会に申し立ててください^^;。
『鼻血』が「はなし゛」ではなく「はなち゛」だから、こんな疑問が出てくるんでしょうね。わからないでもないです……。
「地」の読みは「ち」[漢音]、「じ(ぢ)」[呉音]の二通りありますが、元々「じ(ぢ)」の読みが有ったための疑問と言うべきでしょうか?
『凡例』を「ぼんれい」とかなをふるよりは、「ぢしん」はいいかと思ってます^^;。

A. Yackyさんから

 缶詰(かんづめ)の場合は、「詰」が訓読みの「つめ」なので、「づめ」になるけれど、地震(じしん)の場合は、「地」が音読みの「ち」なので、「ぢしん」にはならないと聞いたことがあります。
 ただし、訓読みでもその意味が失われているような漢字の使い方であれば「じ」「ず」になるそうです。
 たとえば、「稲妻」は「妻」が訓読みだけど妻の意味を持っていないので「いなずま」が正しいらしいです。

A. トンビーさんから

 もともと、「地」には「ち」と「じ」の2通りの音があります。「地」の「じ」音は「ち」を言いやすくするために濁ったものではなく、中国から日本に伝わった当初から「じ」だったようです。
 日本の文字に複数の音読みがあるのは、中国のどの地方から伝わったかによって発音が違っていたからのようです。伝わった時代の違いもあるようですね。
 基本的に「地」の字を「ぢ」とフリガナする例は無いようです。

A. はじめさんから

 答えは簡単です。地震の「地(じ)」は、「ち」が濁ったものではなく、もともと「じ」と読むほうの「地」だからです。「地(じ)+震=地震(じしん)」ってことですね。
 この問題をややこしく感じさせているのは、もともとは「ぢ」と読んだ「地(じ)」を、昭和21年に定められた『現代かなづかい』で「じ」と変えてしまったからだと思います(日本語をややこしいと感じた進駐軍の指示によるものでしょうか?)。
 昭和61年に改正された『現代仮名遣い』にも、地震の「じ」はもともと濁っているものだから「じしん」と読むという理由が記されてありますが、ではなぜ濁るほうの「地」を「ぢ」と読まないかという理由まではフォローしてありません。

A. ひいろさんから

 国語辞典を調べると分かりますが、もともと「地」という漢字の読みには「ち」と「じ」があります。
 たとえば「地」を「じ」と読む熟語には、「地震」の他に、「地元」「地獄」「地酒」「地主」「地雷」などがあります。
「血(ち)」が「鼻血(はなぢ)」になるように、何か別の言葉が前に付くことにより読みに濁音がつく場合がありますが、「地震」は「地」に「震」が付いて「ち」が濁ったものではなく、元々「じしん」と読む漢字なのです。

A. 無言雀師さんから

 現代仮名遣い(昭和61年内閣告示第1号)にその規定があります。長いので一部略して引用します。

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現代仮名遣い 本文
第1 語を書き表すのに、現代語の音韻に従って、次の仮名を用いる。ただし、下線を施した仮名(回答者註:「ぢ」・「づ」・「を」)は、第2に示す場合にだけ用いるものである。
1から5まで (略)

第2 特定の語については,表記の慣習を尊重して,次のように書く。
1から4まで (略)
5 次のような語は、「ぢ」「づ」を用いて書く。
 (1) 同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」
    例 ちぢみ(縮) つづみ(鼓) つづく(続) つづる(綴)
 〔注意〕「いちじく」「いちじるしい」は,この例にあたらない。
 (2) 二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」
    例 はなぢ(鼻血) そこぢから(底力)
   なお、次のような語については、現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として、それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし、「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。
    例 せかいじゅう(世界中) いなずま(稲妻) かたず(固唾)
    きずな(絆) さかずき(杯) ときわず ほおずき
 〔注意〕次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、上記(1)、(2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」を用いて書く。
    例 じめん(地面) ぬのじ(布地) ずが(図画) りゃくず(略図)
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 疑問を持たれたのも当然で、歴史的仮名遣ひでは「地震(ぢしん)」や「明治(めいぢ)」で正解であり、まさしく濁る前の静音の表記に即したものでした。現在でも私的な文章で使用する分には間違いではありません。
「現代仮名遣い」では、一部方言での区別事実などの特殊事情は考慮せず、標準語において「ぢ・づ」が音韻的に「じ・ず」と同じになっているという点を重視し、上記告示「本文第2の5」の(1)同音連呼と(2)二語連合のどちらかに当てはまらないものは全部「じ・ず」にすると規定されました。
 このため、「地下」と「地上」の間にあるものが「ぢめん」でなく「じめん」という状況になってしまったのです。歴史的・学問的には「ぢ」が正しいのです。
 南武線「久地」駅については、JRが間違っているのか、それとも昔から「くぢ」でなくあえて「くじ」と書いていたのか分からないので何とも言えません。
 世の中の大半の島津さんは「しまづ」だと思いますが、先祖代々「しまず」と仮名を振る島津さんも実際にいます。
 地名・人名には「地震」のような普通単語とは違う経緯があることも考え、分けて論じるべきでしょう。

やはり、「地震」の「じ」は、「ち」に濁点がついたのではなくて、もともと「じ」という音読みだったのですね。

やまおさん、ナタさん、アンギラスさん、うにさん、えりっくさん、ヤマさんさんからも、回答をいただきました。ありがとうございました。

A. うにうにさんから

「地」の音読みには、現在の書き方で「じ」と「ち」の2つがあります。
 このうち「じ」は、中国の長江の下流域の人たちが発音していたこの文字の読み方[di]が日本に伝わったものです(これを呉音といいます)。
 当時、日本語の「ぢ」は[di]と発音していたので、「地」の音読みは当然「ぢ」となりました。
 その後、中国の北方の発音[ti]も日本に入ってきました(漢音)。
 当時、日本語の「ち」は[ti]と発音していたので、「ち」という、もう一つの音読みができました。
 では、なぜ「ぢ」が「じ」になったのでしょうか。実は、60年ほど前までは「ぢ」が正しい書き方だったのです。
 室町時代から江戸時代初期にかけて、日本語の発音が変化し、「じ」「ぢ」はいずれも同じ発音になったため、「じ」と「ぢ」の使い分けを決める必要が生じました(同様に「ず」と「づ」も同じ発音になりました)。
 もっともこれには地域差があり、高知県や九州の西部・南部では、現在でもこれらの4つの音(四つ仮名=よつがな=という)を発音し分けているところもあるそうですが、全国のほとんどの地域で「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の区別が失われたのです。
 さて、言葉をカナ文字でどう書き表すかという基準を「仮名遣い」といいます。
 江戸時代〜戦前まで広く使われていた「歴史的仮名遣い」では、使い分けの基準の土台を、奈良〜平安時代の発音と文法に置きました。
 また、漢字の音読みは、中国から伝わった時の中国語の発音を参考にしました(これを「字音仮名遣い」という)。
 このため、「地」の音読みは、呉音が「ぢ」、漢音が「ち」となりました。したがって、「ぢめん」「ぢしん」は正しい書き方だったのです。
 ところが、戦後、昭和21年に「現代仮名づかい」が制定されました(昭和61年改訂)。
 ここでは、書き方の基準は現代の音韻体系に基づく、とされました。このため、発音が同じになってしまった「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は、特に必要がある場合を除いては、「じ」「ず」に一本化されました。
 そこで、「特に必要がある場合」とはどういう場合かを決めなくてはなりません。
 歴史的仮名遣いでは、奈良〜平安時代の発音と文法に照らして「ぢ」「づ」と書くのが妥当な場合、でした。
 しかし、これでは判断がむずかしいので、現代仮名遣いでは、あくまでも現代の語意識から考えて、「これは『じ』ではなく、『ち』が濁ってできた『ぢ』だなとはっきり分かる場合」とされました。
 具体的には、

 1.同音の連呼。(縮む=ちぢむ、続く=つづく、など)

 ただし、最初の方がにごるものは何故かダメだそうでして、「すこしずつ」などの「ずつ」は、歴史的仮名遣いでは「づつ」だったのですが、「ずつ」になりました。

 2.連濁(単語の結合による濁り)。

 たとえば、いそ+つり=いそづり(磯釣り)。これを「いそずり」と書くと、釣り上げた魚を岩場にこすりつけているみたいですよね。かなのつかい方が「かなづかい(仮名遣い)」。

この2つです。
 また、「いなづま」「ぬかづく」など一部の語は、当初は「現代の語意識では2語に分解されない」として、「いなずま」「ぬかずく」だけでしたが、昭和61年の改訂のときに、語源を表現した「いなづま(稲+妻)」「ぬかづく(額+突く)」も認められました。
 「地」の「ぢ」の場合、これまで「ぢ」であった理由は、上記の2つのどちらにも当てはまりません。
 かつてこの文字が[di]というダ行音だったから、というのが理由ですので、現代仮名遣いでは「じ」と書くことになりました。
 ここで、「同音の連呼ではないのは分かるとして、たとえば「路地」などの語もあるのに、なぜ連濁にならないのか」と疑問に思われる方もいらっしゃるかも知れません。
 連濁とは、「単独で発音すると濁らない(無声子音)が、母音にはさまれると、前後の母音が有声音のため、それに引きずられて濁る(有声子音になる)」という現象です。
 たとえば、「いそづり(磯釣り)」で考えてみましょう。
「釣り」は単独では「つり」と読み、決して「づり」とは読みません。しかし、「磯」という単語のあとに続けて発音されると、「つ」の子音である[ts]、iso-ts-uri なって、母音の[o]と[u]に挟まれる格好になり、その影響で有声子音化して(濁って)、[isodzuri]になるわけです。「鼻血」の「血」も、単独で「ぢ」と読むわけではありません。
 ところが、「地」は、単独でも「ぢ」という読みを持っています。たとえば、単語の頭でも「ぢ」と発音する(地面、地震、地元など)場合がありますし、囲碁などの「地(ぢ)」という単語さえあります。
 したがって、この読み方は「母音に挟まれていなくても濁る」、つまり、「最初から濁った読みを持っている」ということになり、「連濁ではない」と解釈され、現代仮名遣いでは「じ」と表記されることになるのです。
 ただ、この文字の場合、まぎらわしいことにもう一つの音読みが「ち」であったために、「ち」が濁ったものと考えたくなるのですね。
 この文字と同じく、呉音「じ」(歴史的仮名遣いでは「ぢ」)、漢音「ち」となる漢字には、「治」があります。
 この文字の場合、圧倒的に「ち」と読む場合が多く(自治、統治、完治、治山、治水など)、「じ」と読む語はすくなく(しかもあまり語頭に来ないので、一見すると連濁のように思える。湯治、療治など)、それだけこの文字が「ち」と表記されるケースになじんでいるにも関わらず、「湯治」を「とうぢ」と書くべきだという声はあまり聞かないですね(歴史的仮名遣いでは「たうぢ」です)。
 また、歴史的仮名遣いで「づ」だったものが「ず」になった漢字には、「頭」「図」などがあります。これらも、もう一つの音読みを考えると、「トウ」「ト」ですので、タ行とのつながりから、もともとはダ行だったことがおわかりでしょう。
 これらの漢字はダ行でなくザ行で書いている人が、「地」だけは「ぢ」なんじゃないかと疑問に思われる方が多いのも、ちょっと面白い現象だと思います。
 なお、「一日中」などの「中」は、現代仮名遣いでは当初「じゅう」のみが認められ、昭和56年の改正で「ぢゅう」も許容されましたが、単独で「じゅう」と読む場合がないことを考えれば、これは明らかに連濁であって、むしろ「ぢゅう」のほうを本則とすべきだったのではないかと思われます(現代仮名遣いでは「現代語の意識では一般に二語に分解しにくい」、つまり一般人は「一日+中」と分解する意識を持たず、全体で一つの単語と認識している、という立場を取っているので、「じゅう」が本則ですが、私には疑問に思えます)。