--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.394(2004.11.02)

Q. ライスさんからの疑問

 私に疑問は、昔(江戸以前)の方々のヘアースタイル、ずばり「ちょんまげ」に関してです。
 なぜ、頭に、「ちょんまげ」なのでしょう? 流行? 武士の規則? 当時は、あれでかっこよかったのか? 疑問です。
 また、「ちょんまげ」って名前の由来も謎です。


A. アイオーンさんから

 決まりというわけではなかったと思います。
 ファッションのようなものですが、ちょんまげを結わない武士は、現代で言えば服を着ないようなもので、大変恥ずかしく不名誉なことだったのだと思います。

A. KAKUさんから

 私が聞いた話では、戦国時代の名残だそうです
 戦場で兜を被る際にショックを和らげるためと、風通しをよくし、蒸れるのを防ぐために、あのような髪型にしたと聞いています
 太平の世になっても一応、武士は戦があれば兜を被って戦わなければならないため、あのような髪型にしていたそうです。

A. 西木亜鳥さんから

 武士はいくさで兜をかぶりますが、それは鉄ナベのようなものですから蒸れるのです。その蒸れを防ぐために、頭のてっぺんを剃ったのです。
 まわりの長髪はそのまま下げて、パッキンとクッションにして、ぐらつかないようにしたのです。
 しかし普段は、そのままではいられないので後ろで束ねて、毛先を上に向けて髷(まげ)を結ったのです。その形が「ゝ(ちょん)」に似ていたので、「ちょんまげ」となったのです。

で、それは、「かっこいい」のでしょうか?(星田)

A. おかかさんから

 つい先日、NHKの番組で断髪令を取り上げていました。
 断髪に抵抗しての暴動や、断髪になった亭主を、
「こんな気持ち悪い頭の人とは一緒にいられない!」
と妻が離縁を申し立てる騒ぎもあったそうです。
 特に武士にとっては、男子が成人したら前髪を落として髷を結うことは、単なるヘアスタイルどころではなく、大事なステイタスシンボルであったようです。
 ちなみに「髷」を結うようになったのは、貴族が大陸伝来の冠を着けた時代、頭頂部の「月代」を剃るようになったのは源平以降(兜の中で蒸れないように)江戸期には町人にも広がったというのが定説みたいです。
「ちょん髷」は江戸時代の小振りな髷の結い方で、これが代名詞になったらしいです。

A. Volklさんから

 あれはファッションではありません。
 この風習には、老人を敬い大切にするというのが根底にあります。男性は年をとるとはげる人が多く、そのような人が人前に出て恥ずかしい思い等をしなくても済むように、成人と認められた男性は全て頭のてっぺんを剃るということで、対処したようです。

A. チーフンさんから

 チョンと髷(まげ)がのっているから、ちょんまげです。
 あれは、職業や身分を表す大事なシンボルだったんですよ。髷の位置、たぼ(後頭部のふくらみ)や鬢(びん、耳の横のふくらみ)の張り具合や形によって、士農工商、遊び人などが、見分けられるようになってました。気をつけて時代劇なんか見ていると、殿様のちょんまげと、ご隠居さんや親分のヘアスタイルの違いに気がつきますよ。
 女性の日本髪はもっと複雑で、ルーツは2種類の髷ですが、細部の違いで、士農工商と、既婚未婚、水商売の処女と非処女、すべて髪型が、違います。これも注意して見ているとわかりますが、素人さんが見抜くのは、女性の髷の場合はちょっとむずかしいかもしれませんね。
 ついでに、ライスさんのいう通り流行です。あれがかっこよかったのです。 ちなみにちょんまげの結い方にも流行があって、後ろのほうで乗っけるのがかっこよかった時代、細く結うのがはやった時代などがあります。
 当時は髪を結うのが仕事の人たち(床屋のはしり)がいました。上手い下手があって、カリスマ美容師みたいな人もいたようです。ほとんどは辻に立っていたり、武家屋敷に御用聞きに行ったりしたようです。
 ちょんまげの由来は「ゝ(ちょん)」の字に似ているマゲだから「ちょんまげ」です。

A. ひいろさんから

「ちょんまげ」の由来ですが、髷の形が「ゝ」の字に似ていたことから、明治以降に半分嘲笑の対象として呼ばれるようになったそうです。明治以前は、単に「髷」と呼ばれていました。
 そもそも髷というのは、江戸時代初頭までは、単に後ろで髪を束ねて上に立てただけのものが普通でした。束ねた先の髪が茶筅に似ていたことから「茶筅髪」と呼ばれていました。この上から烏帽子をかぶるのが、武士に限らず、一般庶民も含めた成人男子の髪型だったそうです。
 また、頭の上を剃ることは「月代」といい、武士が兜をかぶる時に頭頂部が蒸れるのを防ぐために剃っていたもので、もともとは戦の時のみ行われた髪形でした。これを一般庶民が真似し、しだいに頭の上を剃っていることが成人男子としての常識となり、いつしか剃らないことの方がはばかられるようになっていったそうです。
 そして江戸も寛永年間を過ぎる頃に、「茶筅髪」から通常「ちょんまげ」を指す「二つ折り」という髷に変わったようです。この変化は、まさに流行の変化、戦国から江戸太平の世への時代の流れと呼べる風俗の変化だったようです。
 つまり、戦国時代までは実用的ということで「茶筅髪」を結っていたが、太平の世が続くにつれて、髪結いを生業とする者が現れ、髪に油をつけてきっちりと髷を結うことがお洒落として流行するようになったそうです。

A. トンビーさんから

 私は、丁髷の月代はハゲを誤魔化すものだったのではないかと思います。ほぼ、Volklさんの意見と同じです。
 ただ、根底にあるのは老人を敬う気持ちではなく最高権力者の欠点を隠すためだったろうと思います。最高権力者自らか側近のものが、最高権力者と同じようにせよと家来全てに強制したのではないでしょうか。そのとき、家来に説明した理由付けが何であれ本当のところは権力者の欠点隠しだと思います。
 そのように私が考えたのは、かつてヨーロッパのある国では宮廷に出入りする人達がカツラを着用する習慣があったということからです。ベートーベンとかの写真で見られるあのカツラです。イギリスの皇太子がハゲていることからピンと来ました。
 韓国などは室内でも帽子を被っているのが礼儀だったようですが、それも同様の理由から始まったのではないでしょうか。

loansharkさん、麻生有美さんからも、回答をいただきました。ありがとうございました。