Q. ちょりやさんからの疑問
仙台では牛タンが有名ですが、なぜ有名になったのでしょうか?
単純に美味しい牛タンがたくさんとれるのかな、とも思ったのですが、当然、牛タン以外にもお肉はとれるはずですし……。なぜ、牛タンだけが有名になったんでしょう?
なにか理由があるのかも、と思い投稿させていただきました。読者の皆さんからの回答をよろしくお願いします!
★私も、仙台で食べた「牛タン定食」の味が忘れられません。(星田)
A. 麻生有美さんから
仙台の牛タンが有名になったのは、「村おこし」のために、仙台上げて、牛タンを宣伝したからです。
★なるほど……。では、どうして、「仙台は牛タン」なのか?(星田)
A. hisatamさんから
仙台駅で牛タン弁当を買ったら、そのパッケージに仙台牛タンのウンチクが記載されておりました。
昔、牛タンは捨てる部分だったそうですが、それを薄くスライスして炭火で焼いたらおいしく食べられることを発見したのが仙台人だったとのことです。
要は、牛のタンのおいしい食べ方発祥の地ということです。
A. やえさんから
仙台の有名な牛タン屋さんで「太助(たすけ)」というお店が国分町にあります。ここの先代のご主人が始めたのが「牛タン」です。
このご主人が、戦時中で食べ物に困っていた時に牛の舌がどんどん捨てられているのを見て、
「これって食べられないのかな?」
と思って焼いたら美味しかったというのが始まりだと聞いています。仙台ではそれ以来「牛タン」のお店が広まったということらしいです。
A. うにうにさんから
井上英子著『仙台牛たん焼き物語』という本が、仙台の新聞社である河北新報社から2001年に出ています。この本の第1章「仙台名物になるまで」で、仙台牛タンの歴史が20ページ以上にわたって書かれています。詳しくは同書をご覧いただきたいのですが、ここではとりあえず要点を紹介しておきたいと思います。
始まりは戦後の占領期にさかのぼります。進駐軍が仙台にも駐屯し、牛肉の消費量が増えました。ところが、タンやテールまで大事に使うフランス料理と異なり、彼らは肉の本体をステーキとして食べると、残りの部位は捨ててしまうので、そういった部分の肉が一種のホルモン焼きとして焼肉屋などに持ち込まれることがあったといいます。
これに目を付けたのが、焼鳥屋を経営する佐野啓四郎さんという人で、昭和23年に屋号を「太助」と変えると、なんとかして牛タンを日本人の口に合うような料理にできないかと研究に研究を重ねました。そして、昭和25年、メニューに「牛タン焼き」が登場し、昭和27年には牛タン専門店となりました。
しかし、すぐに仙台名物として全国的に認知されるわけではありません。昭和30〜40年代にかけて、店は多少増えたものの、まだまだ地元だけの、知る人ぞ知る存在だったといえます。
転機となったのが、佐野氏の指導を受けて昭和50年に新たに開業した「喜助」です。
それまでの牛タン専門店は、主に繁華街の中心部に位置し、仙台駅からは西に少し離れていたのですが、喜助は昭和55年に、2番目の店舗を観光客の目に触れやすい仙台駅のすぐ前に出店し、その上、「仙台名物・牛タン焼き」という看板を表通りに出したのです。牛タン店が「仙台名物」を名乗ったのはこのときが最初だそうです。
それ以降、他店でも「仙台名物」などの看板を掲げるところが増え、また店を訪れた東京方面の有名人が口コミで広める(店内に色紙がある)などして、全国的に知られるようになっていったということです。
ということなので、仙台の地域経済を活性化するために牛タンを売り込んだというわけではなさそうですし、地域が一丸となって宣伝しまくったのでもないようです。どちらかといえば小さなお店の地道な努力と口コミが功を奏したという面が強いといえます。
★勝一・かついちさん、ポポンさんからも、回答をいただきました。ありがとうございました。
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