--- 素朴な疑問集 ---
トップページへ    [素朴な疑問集 TOP]


疑問No.492(2005.12.27)

Q. 筆ペンさんからの疑問

「お花を嗜む」「お茶を嗜む」といいますが、「嗜む」というのはどういう意
味で使うのですか?
 私の理解では、
「こなしているほどではないけど、楽しむ程度にやってます」
という意味でした。そこで、
「嗜む程度にゴルフをやってます」
と言ったところ、「ゴルフを嗜む」という言い方はおかしいと指摘されました。 お花やお茶を嗜むとは言うけど、ゴルフを嗜むと言う言い方は間違っているのでしょうか? 誰か分かる方、回答のほうよろしくお願い致します。
 ついでに「嗜む程度」というのは、「ほんのすこし」という意味なのか、「かなりできる」という意味なのか、どの程度のことをいうのかも教えて頂ければ光栄です。

私は素朴な疑問を嗜んでいます。(星田)


A. 麻生有美さんから

「嗜む」というのは、ある物事に対して、好んで(積極的に)物事を行うことをいうので、「ゴルフを嗜む」という言い方は、間違っていません。
「ゴルフを齧(かじ)っている」と言ってほしかったのでしょうけれど。「齧る」というのは、その物事の一部をやっているという意味なので、「齧る」よりも、趣味にしているということで、「嗜む」という言い方は、正しいです。

A. まいたけさんから

 全然おかしくありません。
 嗜むという言葉には、「習う」という意味がないわけではないですが、本筋は「好む・楽しむ」です。
 ちなみに、嗜を使用した語句は次のようなものがあります。

  嗜好(品):あるものを好む事。また、その対象の品
  嗜癖   :あるものを偏重して好む状態。

 コーヒーやタバコなどはよく嗜好品なんて言われますね。
「嗜む程度ですが」という言葉は、早い話「趣味として」という意味で捉えておけば間違いないでしょう。なお、上手い下手は全く関係ないです。

A. うめねずさんから

 この疑問が提示された時点で調べてみようと思いつつ忘れておりましたので、改めて調べてみました(白川静『字統』平凡社刊より参考しました)。
「嗜」の「耆」はもともと老境の事を指す字であり、恐らく「老」と「旨」の合字です(完全に断定出来る資料はないらしい)。「老いて旨し」の意味であり、「嗜」はそれに口偏を加えた字。両者に顕著な違いはありません。
 そこより「楽しむ」の意味合いが生じた字ですので、「ゴルフを嗜む」なる表現は特に間違っているとは言えないかと思われます。ただ単に、口偏の存在より食に関する字であると思われがちなだけでしょう。
 面白くも何ともない回答になってしまいましたが、どうぞご参考になさってくださいませ。

A. とんとんさんから

「嗜む」は『広辞苑』には「好んである事に心をうちこむ」「好んで親しむ」とあります。「ゴルフを嗜む」で別におかしくはないと思いますよ。
 ただ、お茶やお花などの芸事について「嗜む」といわれることが多いので、そのような文脈でその言葉に接してきた人には違和感があるのかも知れません。正しい・正しくないという問題ではないような気もします。
「嗜む程度」というのが、「ほんのすこし」という意味なのか、「かなりできる」という意味なのかということですが、これもかなり感覚が個人によって違うかも。ただ、「酒を嗜む」というときは「ほんの少し」ではないと思いますね。でも、「嗜む程度」というふうに「程度」がつくと、「かなりできる」からは遠ざかる感じでしょうか。
 囲碁・将棋について言えば、「嗜む」なら有段者、「嗜む程度」ならある程度するが、有段者まではいかないくらい?
 ゴルフなら、「嗜む」シングルと、「嗜む程度」のプレーはするがシングル以前?
 スキーなら、「嗜む」コブ斜面ウェーデルンと、「嗜む程度」の中斜面パラレル? という感じでしょうか。

A. まいけるさんから

「ゴルフを嗜む」は、用法として、おかしいと思います。
 語義の歴史的な展開を、国語辞典・古語辞典・漢和辞典・中中辞典と並べて追いかけてみたところ、おおよそ次のように推定されます。
 まず、「嗜」という漢字がもつ本来の意味と、「たしなむ」という和語の持つ意味に違いがあります。
 中中辞典によると、もともとの漢字には、「嗜=(1)好 (2)貪」の二つの意味しかありませんでした。(1)の意味では、口偏(くちへん)からもわかるように、もともとは特に飲食物について「習慣として好む」場合に使います。司馬遷の「史記・刺客列伝」にも「嗜酒」という言葉が出てきます。この場合は「大酒飲み」の意味です。
 日本語において「たしなむ」と訓じて、この(1)の意味で使う場合は、さらに「好む」対象を限定して、主に「酒・たばこ」に対して使います。「酒をたしなむ」とは、「酒が好きである」という意味です。ここには、酒が大いに好きなのか、ちょっと好きなのかの程度の意味は含まれていないので、「お酒を少々たしなむ」などど程度を表す副詞をつけることができます。
 では、「お酒はたしなむ程度」という表現はどういうことか、が問題になるわけですが、この表現では、
「下戸ではないけれど、アルコール中毒患者みたいに飲むわけでもない」
という、両極端ではないことしか伝えていません。
「お酒は好きですが、飲める量が多いのか少ないのかはご想像におまかせします」
ということを婉曲に表現した便利な言い方なので、多くの人が口にするのでしょう。そして聞いた方は、
「つきあい程度には飲めるのだな」
と勝手に想像するのです。
 つまり、「たしなむ程度」とは、「ほんのすこし」か「かなりできる」のどちらの意味かと問われれば、答えは「ほんのすこし」です。正確には、言った人は内心「かなりできる」と思いつつ、遠慮して「ほんのすこし」と言い、聞いた方は「要するにかなりできるのだな」と理解する、が答えになります。
 ちなみに、「嗜」の原義の「(2)貪」は「むさぼる」と読みますが、「嗜」の訓読みとしては日本語に取り入れられませんでした。ただ、その意味は「嗜眠」という熟語に残っています。
 さて、次に「お茶・お花をたしなむ」という表現ですが、これは、もともとの「嗜」という漢字にはない意味で、日本語のみにある使い方です。「芸事などに親しんでいて、ある程度の水準にまで達している」という意味で、茶道・華道・和歌・俳句・囲碁・将棋などの文化的な分野や武芸などに対して使われます。
 国語辞典や古語辞典に収載されているこの意味での用例をみると、
「道をたしなみて、やんごとなくなんおはしける」(「今鏡」平安時代末)、
「和歌の道をたしなみて、その名聞こゆる人なり」(「今物語」鎌倉時代)
と、「たしなむ」という言葉が、古くから「ある程度の水準にまで達している」という程度を表す内容を含んでいたことがわかります。
 つまり、「お酒をたしなむ」と「お花をたしなむ」では、同じ「たしなむ」でも意味が違い、「酒」では程度の意味はなく、「花」ではある程度の水準にあることが含意されているのです。したがって、「お花はたしなむ程度」と表現して、「ほんのすこししかできない」ことを意味することは誤用とされるべきでしょう。
 以上をふまえた上で、「ゴルフをたしなむ」が適切な表現かどうかを考えます。
 まず、単に「好き」であれば、ゴルフは「酒・たばこ」の類でないので、「たしなむ」はふさわしくありません。
 次に、ゴルフの腕前が「ある程度の水準にまで達している」ならば、「たしなむ」を使えなくないようにも考えられます。しかし、ゴルフはあくまでスポーツであり、「たしなむ」対象としての「芸事(=琴・踊り・三味線などの遊芸)」に含むのは、相当無理があります。
 これは、「ゴルフが西洋スポーツだから芸事に含まれない」という意味ではありません。たとえば、日本の国技であっても「相撲をたしなむ」とは言いません。やはり、ゴルフも野球もサッカーも、相撲と同様「勝負事」であって、自らの技芸の上達だけを目標とする「芸事」とは見なせないのです。
 以上から、質問への答えは以下のようになります。

 1.「ゴルフをたしなむ」は不適切な表現である。
 2.「たしなむ程度」の意味は、酒なら「つきあい程度に少々」。
 3.芸事で「たしなむ」ならば、ある程度の水準にまで達している。
 
――ともっともらしいことを書いてきましたが、実際のところは、両者の「たしなむ」がごちゃ混ぜになって使われているのが現実のようです。
 なお、「ゴルフを楽しむ」という意味で「ゴルフをたしなむ」という言い方はできません。「嗜」という漢字にも、「たしなむ」という和語にも、「楽しむ」という意味はありません。「好み親しむ」という意味を載せている辞書がいくつかありますが、「酒に親しむ=いつも飲む」という意味で、「楽しむ」とは意味が違います。語呂が似ているせいか、誤解されている使用例をときどき見かけます。

お見事です。
 で、最後まで読んで、考えて、私なりに出した結論は、ゴルフは「芸事」の領域に入っているのではないかということです。
 純粋に本人の技術向上を狙っている人もいますが、ゴルフを通じて他人との交わりを目的にしている人も多いでしょう。だからこそ、「相撲を嗜む」なんて言わないけれど、「ゴルフを嗜む」と言う表現が生まれているのだと思います。(星田)

――とお返事したところ、再び、まいけるさんからお便りをいただきました。掲載しますね。

A. まいけるさんから

<<おまけ>>「藝」について
 文末に、「ゴルフは芸事に含めてもよいのでは?」という星田様のご意見が書かれていました。今日の日本人の「たしなむ」という言葉に対する語感からは、おっしゃるとおりの意見がたくさんあると思います。
 これは「芸事とはなにか」という定義を考えることで、はじめて結論を明らかにできる問題です。
 星田様の「純粋に本人の技術向上を狙っている人もいますが、ゴルフを通じて他人との交わりを目的にしている人も多いでしょう」との一文からすると、

「野球・サッカー・相撲など」=「純粋に本人の技術向上を狙うもの」
「芸事」=「そのことを通じて他人との交わりを目的としたもの」

と定義されているように思われます。この定義は、おそらく「歌会」や「茶会」が社交の場としてイメージされることが元になっているのではないでしょうか。(ちなみに私は、逆に、「芸事」=「純粋に本人の技術向上を狙うもの」と定義して記述していますので、誤読されてしまったようです)
 歴史的に「藝」の語源をたどると、まず、「藝」という漢字には日本語としてなじんだ訓読みがない、という事実に気づかされます。これは、「藝」という漢字の日本への輸入があまりに古く、しかも、「藝」に相応する日本語の概念が、輸入当時には存在しなかった、ということを意味しています。
「藝」の中国語としての原義は「(1)草木をうえる(園芸)」です。ここから「自然の素材に手を加えて、形よく仕あげること。人工を加える仕事」という意味が派生し、転じて「(2)技術や学問(才芸)」を意味するようになりました。たとえば、中国の周代において、「六芸」と言えば、「礼、楽、射、御、書、数」の、士として修得すべき六つの技芸をさしていました。
 日本には、四書五経や史記・漢書の輸入を通じて、もっぱらこの「(2)技術や学問」の意味で「藝」という言葉を理解し、それゆえに、訓読みも成立しなかったのだと考えられます。
 さて、日本語となった「藝」は、これからさらに意味を拡大し、「(3)習って身につけたこと」一般をさすようになり、中国本家では対象として含まれなかった習い事が続々とその範疇に含まれていきました。歌舞伎・能、琴・三味線といった歌舞音曲、和歌・俳句の文芸、そして、弓術や剣術といった武芸などなど。
 時代を下ると、絵画や映画、演劇や小説なども「芸術」として総称されるようになって、今日の用法に至ります。
 同時に、日本語の「藝」はさらに意味を軽くし、「(4)人よりも上手にできること」ならなんでもよくなり、たとえば、「芸達者」とか「一芸に秀でる」などといった言い方がされるようにまでなりました。
 以上が今日、日本語で「芸」と言われる言葉が含んでいる意味範囲です。 そこで、「たしなむ」という語が関連を持っているのはどの意味かというと、「(3)習って身につけたこと」ということになります。
 では、習う対象としての「芸事」は、どのような歴史的変遷をとげてきたのでしょうか。
 ほとんどの芸事は、平安時代から室町時代にかけて創始されています。この時代、ごく一部の上流階級をなす貴族や武家が「たしなみ」としてその技術を磨き、宴の場を盛り上げるための和歌や琴、茶の湯などを発展させていました。
 戦国の世になると、京の雅な文化が地方に拡散し、「小京都」が各地にできます。これにより「たしなみ」としての「芸事」を学ぼうとする人々が全国に増え、彼らを教える人々のなかから茶道や歌舞伎の大成者が出てくることになります。
 江戸時代にはいると、町人文化が栄えます。彼らはサークルをつくってすでに大成された「芸事」の作法や型を師匠について学び、その道を究めていく、という今日的なスタイルを広めていったのです。
 このような変遷から考えると、同じ「芸事」でも、前期と後期に分けて考えられることが分かります。
 
 前期:上流階級が宴席に参加するためのたしなみとして身につけた「芸事」
 後期:町衆が趣味として、同好の士とともに師匠について究めた「芸事」

 ゴルフをこの分類に当てはめるなら、前期のたしなみとしての「芸事」に相当するじゃないか。そらみろ、と言われそうですが、ここからが問題なのです。「茶・花をたしなんでいる」と言うとき、そこには言外に、「宴席に参加しても恥ずかしくない程度の素養として身につけている」(前期)、あるいは、「その道を究めるべく、師について精進している」(後期)という含意があります。
 これは、「たしなむ」と言える対象としての「芸事」がもともと貴族趣味に源泉を持ち、人々のあこがれの対象として存在していること、さらに室町以降は禅宗の影響を受けて「道を究める精神修行的な行為」として完成していったことを反映しているのです。それゆえに、「茶・花をたしなんでいる」といえば、「ほう」と周囲の人から一目置かれたりする表現たり得ているのです。
 ここまできて、文頭で、私の「芸事」の定義が
  「芸事」=「純粋に本人の技術向上を狙うもの」
であると言った意味が、後期を念頭にしていたと理解していただけたと思います。もし、
  「芸事」=「そのことを通じて他人との交わりを目的としたもの」
だけならば、カラオケだって麻雀だって「たしなむ」ことはできてしまいます。
 つまり、「たしなむ」対象には、ある一定の資格要件があり、その条件が、「道を究める精神修行的な行為かどうか」である、となります。
 というわけで、最後に「ゴルフ」は「道を究める精神修行的な行為かどうか」という点を検証することになります。
 第一に、「先人の大成した道(作法や型)を習い、究めていく」ものを「芸事」であると考えれば、ゴルフにはそういう「道」があるのか大いに疑問です。
 第二に、歴史的事実をあげておきます。ゴルフは14世紀中頃にはスコットランドにおいて現在の方式で貴族を中心にプレーされていたことが分かっています。しかし、15世紀以降何度も、国王よりゴルフ禁止令がだされています。理由は「武術や弓術の訓練の妨げになる」。「道」を究めることに逆行すると判断されていた、と解釈するのは、牽強付会でしょうか。
 以上、やはり、「ゴルフを嗜む」はおかしい、という結論となりました。
 それでも「ゴルフを嗜む」という表現が支持されるのは、「ゴルフは上流階級の社交場である」という意識があるので、同じく上流階級の社交場のイメージがある「歌会」や「茶会」の様子とだぶって考えられてしまうからではないでしょうか。
 あるいは、茶道や和歌が大衆化・世俗化しすぎて、「たしなむ」対象としてのありがたみがすっかり失われてしまったというべきなのかもしれません。
「たしなむ」という言葉に伝統の力強さを感じるのは、もはやノスタルジーに浸る保守主義者でしかないのかなあ、と思ったりします。

まいけるさん、ありがとうございました。
「ゴルフを嗜む」という表現が行われている――という現状を認識した上でのご回答でしたので、大変よくわかりました。
 説明を読んでいて、今後、「ゴルフを嗜む」という表現は、ますます増えていくのではないかと、考えてしまいました。(星田)