--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.504 (2006.02.24)

Q. 漁師さんからの疑問

「○○信用金庫」とか「△△銀行」とか、同じお金を扱うところなのに、なぜ金と銀があるのでしょうか? 一体、何が異なるのでしょうか?
 その歴史も知りたいところです。

銀行にも「貸金庫」があるし……。(星田)


A. きくちゃんから

「○○信用金庫」と「△△銀行」の違いと歴史についてですが、その違いはネットで検索すればすぐに出てくるのでどなたかにおまかせして、ちょっと笑える(?)話を。
 銀行に就職するのは「入行」ですが、信用金庫に就職するのは「入庫」といいます。車か荷物みたいですが、信用金庫の方に聞いたので間違いありません。
 なお、やめるのは「退庫」でもなく「出庫」でもなく「退職」だそうです。

A. ディードさんから

 信用金庫と銀行の違いについて調べてみました。社団法人全国信用金庫協会のHPにその説明がありました。

銀行:株式会社であり、株主の利益が優先され、主な取引先は大企業です。

信用金庫:地域の方々が利用者・会員となって互いに地域の繁栄を図る相互扶助を目的とした協同組織の金融機関で、主な取引先は中小企業や個人です。利益第一主義ではなく、会員すなわち地域社会の利益が優先されます。さらに、営業地域は一定の地域に限定されており、お預かりした資金はその地域の発展
に生かされている点も銀行と大きく異なります。

A. ヒイロさんから

 まず「銀行」の由来ですが、銀行という文字が初めて出てきたのが、明治5年になります。
 なぜ「銀行」なのかというと、明治5年に「国立銀行条例」を制定する際に、英語の「Bank」を翻訳する必要が出てきました。そのとき、中国語で「店」を意味する「行」の字を使って、「金行」もしくは「銀行」という案が出され、語呂の良さから「銀行」が選ばれたという説が有力のようです(異説もあります)。
「信用金庫」ですが、これは昭和26年に制定された「信用金庫法」で設立された組織です。
 信用金庫法を制定するにあたって、最初は「信用銀行」という案もあったが、まず「銀行」という名称を使わないことと、当時政府系の非営利金融機関に「○○金庫」という組織が多かったことから「信用金庫」とされたようです。
 「銀行」と「信用金庫」の違いですが、以下のようにまとめました。

【銀行】
 根拠法: 銀行法
 監督官庁:金融庁
 組織:  株主出資による営利法人
 営業地域:無制限
 顧客:  預金・・無制限
      融資・・無制限
 会員資格:会員自体がなし

【信用金庫】
 根拠法: 信用金庫法
 監督官庁:金融庁
 組織:  会員出資による非営利法人
 営業地域:金融機関が存在する一定の営業地域に限定
      (地域で集めた資金を全て地域に還元することを目的)
 顧客:  預金・・無制限
      融資・・原則会員のみ
 会員資格:営業地域の在住者、勤務者、営業地域の中小企業の経営者等
      特定の規模以上の企業は会員にはなれない。

 簡単にいえば、銀行は大企業を中心に取引を行い、営利目的に活動する金融機関で信用金庫は、ある地域内で資金を集め、その資金をその地域内の中小企業や住民に還元するための非営利金融機関といえます。

A. まいけるさんから

 投稿されている漁師さんの質問は、金融機関としての金庫・銀行という言葉の、「金」「銀」の由来についてですが、結論を先に述べれば次のようになります。

 (1)「銀行」という言葉は、1870年頃、英語「Bank」の翻訳として登場。
   ただし、「銀行」という言葉自身は中国での翻訳語を輸入した。
 (2)「金庫」という言葉は、1923年、ドイツ語「Kasse」の翻訳として登場。
   ただし、「金庫」という言葉自身は1866年頃より登場している。
 (3)翻訳当時の通貨の主流が、銀本位か金本位かで金・銀に分かれた。

[銀行の由来]
 明治維新とともに、日本にも西洋式の銀行制度が導入されました。伊藤博文の建議により、1872(明治5)年、アメリカの「National Bank Act(国法銀行法)」を範にした「国立銀行条例」が渋沢栄一によって作られました。このとき、渋沢栄一が「両替屋では下品である」として、「Bank」の訳語を学者たちに相談したところ、「金行」「銀舗」など種々の案がでたが、いずれもおもしろくないというので結局「銀行」に決した、と自身の回顧談で述べています。この逸話を引いて、「銀行という言葉は渋沢栄一が作った」と言われることが
多いようです。ちなみに、「行」は中国語で「商店」という意味です。
 これが、法令により「銀行」が定訳となった最初ですが、使用例はこれより少し遡ります。新聞記者・福地源一郎の「会社弁」(1971年刊)は、西洋の会社のしくみについての解説書ですが、この中に「Bank」の訳語として「銀行」が使われています。ただし、序文は渋沢栄一が書いているので、上述の相談された学者の一人は、あるいは福地源一郎だったかもしれません。
 さて、ここで奇妙なことに気づきます。国立銀行条例が定める国立銀行は、金貨を担保とした兌換紙幣を発行するよう定められています。つまり「金本位制」なのです。「金行」こそふさわしいはずなのに、「銀」とはおかしな話です。日本銀行のホームページのQ&Aでは「語呂のよい」ことが理由とされて「銀行」に決定した、と解説しています。
 実は、西洋式の銀行は、当時既に日本国内にあったのです。イギリス系の外国銀行である「Oriental Banking Co.(オリエンタル・バンク)」が1861年に横浜支店を開設し、外国商人とだけでなく、幕府や諸藩、維新後は明治政府とも取引がありました。当初は「両替商」と言ったり、「バンク」という言葉がそのまま使われていたようですが、1870年には「東洋銀行」と訳されています。
 この銀行はこれより25年前にすでに中国へ進出していました。アヘン戦争が終わった後の1845年に「麗如銀行」という中国名で、中国初の西洋式銀行として香港本店を開業しています。また、今日もある香港上海銀行(中国名「匯豊銀行」)は1865年に創立されています。ロプシャイド編「英華字典」(1866〜1869)にも「Bank=銀行」と記されています。
 つまり、実は「Bank=銀行」という訳語は、すでに中国語が先行して訳しており、渋沢栄一らは、日本語として新しい言葉を作ることを諦め、すでに日本国内の一部で使われていた中国語訳をそのまま取り入れたということになります。
 明治維新当時、欧米の新文物を取り入れるのに翻訳主義がとられ、万単位の膨大な和製漢語が作られました。その後、中国で洋務運動や孫文の革命運動が広まり、その過程で、多くの和製漢語がそのまま中国語に取り入れられていきます。「中華人民共和国」という名称からして、「人民」も「共和国」も出自は和製漢語です。「銀行」も維新期の和製漢語と誤解されることが多いのですが、実は、中国語での訳語が先行し、それがそのまま日本語に定着した言葉だったのです。

[銀の由来]
 では、中国語としての「銀行」は、なぜ「銀」なのでしょうか。
 中国は、古くより国土が広大な割には、金銀資源に恵まれませんでした。金貨や銀貨は作られず、貨幣代わりに使われても地金のままで、貨幣として流通したのは、主として銅銭でした。宋の時代には、銅すら産出しない今の四川省のあたりでは鉄銭を使っていましたが、重くて仕方ないからと、世界ではじめて紙幣が登場し、元・明代に広く使われました。
 各種の貨幣が流通し,また金銀の地金が通貨として用いられたため,通貨自体を営業対象とする商人も古くから存在し,両替なども行われました。宋代には金銀商店が集まった町を「銀行」と呼び、そこで銀の相場がたっていました。
 ところが、ヨーロッパ諸国が大航海時代になり、新大陸から多量の銀(スペイン銀と呼ばれました)を持ち込むようになりました。ヨーロッパでは銀の価格が著しく下がって価格革命が起こり、清朝は茶の輸出の代金として多量の銀を得て、大繁栄します。秤量貨幣として銀は広く流通し、清朝は税額を銀立てで決めるようになり、清朝の銀による税収は、明代の10倍に膨らんだと言われています。中国は高額決済は銀で行い、少額には銅銭を使うという、銀銭複本位制となったのです。
 19世紀の中国では「Money=銀」であり、中国の伝統的な金融機関は「銀号、銭荘」などと呼ばれていました。一方で外国商会のことを「洋行」と訳していたことなどから、「Bank=銀行」という翻訳が成立したのだと思われます。

[信用金庫の由来]
 信用金庫は、1951(昭和26)年に制定された信用金庫法に基づいて設立された、中小商工業者向けの金融機関です。
 銀行は、株式会社であり、株主の利益が優先され、主な取引先は大企業であるのに対し、信用金庫は、一定の営業地域内の人だけが利用者・会員となれる非営利の金融機関で、主な取引先は中小企業や個人である、という違いがあります。
 しかしながら、「金庫」という言葉が金融機関を表す目的で使用された最初の例は、1923(大正12)年の「産業組合中央金庫」(現在の「農林中央金庫」)です。
 明治維新後、上からの産業革命が展開され、日本国内の資本主義は急速に発展していきました。この過程で、小農民が次々と没落していくという事態を招きました。これを憂慮した政府は、ドイツ系の農村信用組合を移植しようと考え、1900年「産業組合法」を成立させ、信用・販売・購買・生産(利用)の各種事業を営む産業組合を全国各地に作っていくことを企図しました。第一次世界大戦後の不況でさらに農業経営が困難に直面すると、政府は産業組合の育成・復旧を強力に推し進めることとし、各種の全国組織を作りました。その一つとして、1923年、「産業組合中央金庫」が設立されたのです。
 一方、都市部の中小商工業者や勤労者も、財閥などの大資本の発展のあおりを受けて苦しんでいることに配慮し、1917年、産業組合法が改正され、市街地信用組合が認められることとなりました。これが信用金庫の直接の前身です。戦後、1949年に中小企業等協同組合法が作られ、今日に続く「信用組合(信用協同組合)」に改組されましたが、この制度は、組合員以外の利用に厳しい制限が加えられたものでした。大規模な組合の中には、組合員以外との取引が大きな比重を占めているものが多かったことから、その点に配慮した信用金庫法が1951年に制定され、信用組合の一部が今日の「信用金庫」に転換していったのです。
 さて、この「信用金庫」の名称の由来については、当時、単独法として名称を検討する際、「信用銀行」や「庶民銀行」などいろいろな意見がでましたが、最終的には“「銀行」という名称は使わない”という結論に至りました。一方、当時の政府系金融機関は、「庶民金庫」「恩給金庫」「復興金融金庫」という名称で非営利性の金融機関として機能していたことから、「金庫」という語を名称の中に盛り込もうということになり、その結果「信用金庫」という新名称が誕生しました。ちなみに、英語に翻訳するときは「Bank」で、銀行と同じで
す。

[金庫の由来]
 産業組合がモデルとしたのは、ドイツの農村信用組合であることは先に述べました。当時、ヨーロッパでは、空想的社会主義思想が広まっており、その具体的な実践事例として、協同組合事業が展開されていました。
 産業組合中央金庫で初めて使われた「金庫」は、ドイツ語の「Kasseカッセ」およびフランス語の「caisseケス」に由来します。「現金(独Kassa=英Cash)を取り扱う箱」という意味で、独話辞典を引くと、
 「(1)金庫;金銭登録機・レジ (2)会計・切符売り場」
と訳されています。英語に訳すと、金庫の意味では「Safe」、金銭登録機・レジの意味では「Cashier」となります。
 ドイツ語の「Kasse」は今日でも特別な範囲または種類の金融を営む金融機関の名称として用いられることがあり、共済金庫(Unterstutzungskasse)・疾病金庫(Krankenkasse=日本の健康保険に相当)などと使われます。産業組合を日本に導入した当時の日本の官僚たちは、ドイツ語の「Kasse」をそのまま直訳した「金庫」という名をもって、銀行とは異なる金融機関の名称としたのです。
 ここで、「直訳」と言ったのは、お金を保管する箱としての「金庫(Safe)」は、金融機関名としての「金庫(Bank)」より早くに日本に輸入され、翻訳されていた事実をふまえています。
 現在の金属製の金庫(Safe)の原型となるものがつくられたのは1820年代のフランスが最初です。日本では1869年に鍛冶屋の竹内弥兵衛(やへえ)が外国式金庫(Safe)の製造を開始しました。当時は「金張箱」「ドル箱」と呼ばれていたようです。いつ頃から「金庫」と呼ばれるようになったのかを語源辞典で調べると、1900年発行の「風俗画報209号」に「大倉金庫店 店主・萩原彌吉」との記載があったとされており、また、現在の姫路屋金庫店は、1916年に「山崎金庫店」として開業している事実からも、「金庫(Safe)」は「金庫(Bank)」より早くに使用例があることは間違いありません。
 これらのことから、「産業組合中央金庫」という名が考えられたころには、すでに「金庫」という語は日本国内で広く受け入れられていたと思われます。

[金の由来] 
 最後に、「金庫」はなぜ「金」なのかについてです。
 理由は二つの候補が考えられます。

(a)金庫は金属製の箱なので、「金」とつけられた。
(b)金庫は金をしまう箱なので、「金」とつけられた。

 最も早い「金庫」の用例は、福沢諭吉が「西洋事情」(1866-70)の中で
「両院の議事官は合衆国の金庫より給料を受け」
と書いたもののようです。ここでの金庫は「金蔵・金倉(かなぐら)=お金を納めておくところ」という意味ですから、「(b)が正しい」となります。 また、漢字の成り立ちからも「(b)が正しく、(a)は誤り」と考えられます。
 お尻に「庫」が付く熟語を集めてみると、「庫」の前に付く語は次の5種類に分けられます。

(1)類義語(倉庫、府庫、格納庫、収蔵庫、貯蔵庫)
(2)動詞 (在庫、入庫、出庫)
(3)所有者(国庫、公庫、官庫)
(4)性能 (冷蔵庫、冷凍庫、保温庫)
(5)収容物(宝庫、書庫、車庫、文庫、武器庫、酒庫、食料庫、火薬庫、艇庫)

 つまり、(a)のように材質を示す語を頭に冠した熟語は存在しないのです。したがって、「金庫の金は(5)収容物を表す」と考えるのが適当のようです。 では、「金庫」の「金」は何をさしているのでしょうか。「金」には

 (1)金属=Metal (2)黄金=Gold (3)金貨=Gold Coin (4)お金=Money

など、いろいろな意味を含んでいます。
 しかし、先の福沢諭吉の訳語は、明らかに「(4)お金=Money」の意味で使っています。先に銀行について述べた際、「19世紀の中国では、「Money=銀」であった」と書きましたが、どうして日本では、「Money=金」だったのでしょうか。
 日本はもともと、中国と違って金(Gold)の豊富な国でした。奈良の大仏も、東北地方から献上された砂金によって金箔が貼られたと記録されています。鎌倉時代、日本は砂金を輸出し、中国から銅銭を輸入して国内に流通させていました。このために「黄金の国ジパング」とう名はヨーロッパにまで知られました。
 戦国時代にはヨーロッパの技術が導入され、金銀の産出量は激増し、戦国大名たちによって金貨・銀貨が鋳造され、各地で流通するとともに、南蛮貿易で多量の金銀が海外へ流出していきました。
 江戸時代になると、鎖国により貿易は激減しましたが、太平の世が続く中で貨幣経済が急速に発展していきました。江戸幕府は、膨大な金銀山を直轄領とした上で、金・銀・銭の3種類の貨幣を金座・銀座・銭座で鋳造させて同時に流通させる複本位制をとりました。実際は、大きな取引では、上方(大坂)を中心に銀立て(銀本位)が、江戸を中心に金立て(金本位)が主流となり、庶民の日常生活では銅銭が使われました。当時「カネ」といえば、上方では「銀」と書き、江戸では「金」と書いていました。
 福沢諭吉は、大分県(豊前中津藩)の出身ですが、大坂の適塾に学んだ後、1858年に江戸で蘭学塾を開き、以降、江戸住まいとなります。「西洋事情」が書かれるのはこの8年後ですから、福沢は江戸ことばの「金=Money」を尊重して、「金庫」という和製漢語を考え出したのではないでしょうか。ただし、福沢諭吉が初めて「金庫」という翻訳をしたという確証はありません。
 ちなみに、当時の中国には、清朝の役所の中に「銀庫」という、税金として集めた銀を収納しておく倉庫がありました。もし中国で先に訳されていたならば、「銀庫」という言葉になっていたかもしれません。