--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.640 (2007.11.17)

Q. yokohamaさんからの疑問

 私の車にはカーナビがありませんから、遠くまで車で移動するときは、道路案内を頼りにしています。もちろん、事前に地図でチェックをしますが、案内があれば、ここで左折するんだなとかがわかって、とても助かってます。
 そこで、疑問です。
 徒歩で移動していた頃、道案内のために、道しるべがあったと思うのですが、当時の人は、道しるべ程度の道案内で、目的地にたどり着けたのでしょうか?
 たとえば、江戸から京の都へ行くとなると、かなりの長い距離です。東海道ってどれくらい整備されていたのでしょうか、歩いている人は道に迷うことなく、目的地にたどりつけたのでしょうか?

昔の道しるべが残っていることがありますが、昔々はもっとたくさんあったのでしょうか? ――ってことですね?(星田)


A. ごんたさんから

 昔の交通手段は徒歩、よくても馬などでしか長距離の移動は行わなかったようですから、東海道に代表される街道も、都会の人には分かりにくい表現ですが、あぜ道をちょっと広くした程度の道だったと思います。大名行列のような大規模な移動でも、人が三、四人が並んで歩ける幅があれば十分だと思います。
 では、道に迷わないのか、という疑問が残ります。
 これらの対策として、街道と一般道をなるべく直接接続しないよう、配置されていたのではないかと推察します。
 村などへの入り口となる要所、進行方向が大きく異なる分岐点などには道標などを設置して迷わないように配慮はされていたとは思います。
 しかし、暗くなってしまうと、確認しづらくなりますから、なるべく道なりに歩けば街道を進む事になるように配慮されていたと思います。
 また、街道には一里塚(大きな盛り土のようなもの、約4キロごとに設置)のように旅の進捗を把握できるような設備もありました。茶店などの休憩所、宿屋がそれら周辺や分岐点などに建ち並んで宿場町を形成し、旅人が迷うことを防いでいたでしょう。
 旅人も大まかな地図のようなものは持参したと思います。詳しいことは書かれずとも、迷いやすい部分の説明や区間ごとの塚の数、宿場町などの情報は把握していたのではないでしょうか?
 余談になりますが、私が以前住んでいた横浜の一里塚がある地名がハンドルネームの語源です。

A. 異邦人さんから

 東海道の整備状況(というのかな?)、古代の東海道は今の基準から考えても幅広の道路であったことが各地の発掘調査などで判明しているようです。
 平安時代の中期以降は荒廃してしまい、道幅も狭くなっていたようですが、江戸時代に入ると参勤交代などで使われるようになり、再整備されたといわれています。
 この頃になると往来する人も多く、一里塚などや道標なども諸所に立てられて旅人が道に迷うようなことも無かったと考えられています。
 宿場も徒歩で半日程度という近距離ですから、路銀(旅費)に不自由をしていなければ問題が無かったでしょう。もっとも、お蔭参り(伊勢参拝)などであれば道中のお接待などがあったのでほぼ無問題だったと見てよいのでは?
 お蔭参りというと、犬が一匹で江戸から伊勢まで行って帰ってくるという「犬の伊勢参り」なんてのも記録されています。それだけ安定していたということだろうと思いますね。

A. 江戸川三連豚さんから

 迷わなかったと思います。なぜかって、歩いている人が多かったから。
 東海道って、江戸時代以降は「日本最大の幹線道路」です。現在と異なり、幹線道路から外れて往く人なんて普通はいません。また、幹線道路以外でも、その土地における村々を繋ぐ「村間道路」は決まっていて、それ以外の道といえば、田んぼの畔とか、けものみち程度にまで落ちます。
 道標は、道と道とが分岐や交差しているところにだけあればよく、道の分岐も今ほどは複雑じゃありませんから、それで足りていたはずです。
 それと、田畑で働く屋外作業者が今とは比較にならないほどいましたから、一般の旅行者は迷わなかったでしょう。

A. ざ〜さんから

 東海道じゃないですが、私の家の近くには長尾街道や西高野街道があります。40年以上前はほとんど手付かずで、田圃の間を通り抜ける昔のままの道でした。この街道は古の人達が大和飛鳥を目指して歩いた道です。道幅がしっかりあり(自動車がすれ違うことができる位の幅)、かなり立派な地道でした。
 それから想像すると、江戸時代の大動脈だった東海道(のぞみも、新快速も、大型トラックも、人間も一緒に走っていたようなものですから)は、舗装道路2車線分位は裕にあったのではないかなと思いますね。