--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.663 (2008.03.14)

Q. 通りすがりさんからの疑問

 江戸時代の人は、「何年前」というのをどうやって計算したのでしょう?
 たとえば、元禄元年(1688年)は文政3年(1820年)からみて132年前だと、どうやって分かったんでしょう?
 西暦なら引き算すれば、すぐ分かります。干支もありますが、これは60年ごとに同じものが来るので、正確には計算できません。紀元(皇紀)は、明治になってから使われるようになったものですし……。

たしかに、干支では、引き算しづらいですね。(星田)


A. ごんたさんから

 たとえば、昭和50年生まれの人は今年何歳になるかという疑問を解決する場合に、西暦を用いない計算方法は、

 現在の元号の年数+64(昭和の年数)−50(誕生年)−1(元年としてだぶった分)

という計算を行えば求められます。おそらく、昔の人も同じようなことをしたんだと思います。
 読み書きのできる人は、暦などで年号の変わり目などを知ることはできたでしょうから、計算すればよいだけのことです。
 時代が古いほど計算は面倒になり、各年号が何年続いたかなどの資料を探すのも大変だと思います。しかし、そこまでして何年前だったかを知ろうとする人は歴史を研究する学者など、ごくわずかな人たちしか存在しなかったのではないでしょうか?
 一般人はそこまで細かく知ろうとはせず、質問にあった文政3年からみた元禄元年……の疑問に対しては「だいたい120〜130年ぐらい前」程度で満足していたのではないでしょうか?
 たとえば、身近な事象を元にして、
「元禄○年に生まれたひい爺さんの○○周忌の年に○○があって(中略)、そして自分が今○○歳だから132年前だ」
 なんて計算をする人も居たかも知れませんが(笑)。

私は、自分の年齢でも、西暦を使って計算しています。
 年号がころころ変わったら、大変だなと思いました。

A. 館 淳一さんから

 昔の文書には、記載された年月日には必ず干支(えと)が記されていました。どうもこれが「ある年とある年」の間隔を計算するのに便利だったのではないかと思います。
 干支は十干十二支ですから60通りの組合わせがあります。すなわち最初の甲子(きのえね)から次の甲子まで60年という間隔があるわけです。
 この干支を覚えておけば、途中でどれだけ改暦があろうと間隔は変わりませんので、ずいぶんラクだったでしょう。
 つまり昔の人は60年というタイムスパンで歴史を眺望していたということになります。
 この干支で時間の経過を計算する風習は現在でも「還暦」に残っています。

A. 朝霧圭太さんから

 僕なりの推測です。
 恐らく干支(えと)を用いたのではないでしょうか。子、丑、寅、……の十二支の方だけではなくて、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、……の十干とセットのほうです。ちなみに、甲子園は「甲子(きのえね)」という干支の年にできたからそう名づけられました。
 今は、年賀状でおなじみの十二支はともかく、十干の方は影が薄いですが、西暦が採用される前は便利だったと思います。
 たとえば、今年(2008年)の干支は「戊子(つちのえね)」ですが、

  10年前の1998年……戊寅(つちのえとら)
  20年前の1988年……戊辰(つちのえたつ)

と、いずれも最初に十干の「戊」がつきます。だから、「戊」のつく年なら、10×n年前(nは整数)とすぐ分かります。
 あとは、「甲子」のように「甲」がつく年なら、「戊」の4つ前ですから、(10×n+4)年前、「壬申(みずのえさる)」のように「壬」のつく年なら、「戊」の4つ後ですから、(10×n−4)年前といった具合です。
 nの部分はどうするか? それは、十干の相棒の十二支で考えるのです。

 例)キャンディーズが解散したのは何年前?

 西暦なら、今年の2008年から、3人が普通の女の子に戻ると宣言したのが1978年だから「2008−1978」で30年前とするところですが、干支なら、さしずめ次のように。

――あれは確か、怪物と呼ばれた耳のでっかいピッチャーがタイガースにドラフトされユニフォームに袖を通すことなくトレードされた空白の1日事件があったのと同じ年じゃったなぁ。そうじゃ、戊午(つちのえうま)じゃ。
 藤原道長が威子を後一条の皇后とし皇后・皇太后・太皇太后を全て自分の娘で占めた得意で「この世をば」の歌を詠んだ年や。
 不平等条約を押し付けられた年、第一次世界大戦で景気がよくなったと思っとったのに米騒動でわやになった年なんかと同じ干支じゃ。
 おっと脱線してしもうたわい。戊午ということは「午(うま)」じゃな。今の「子(ね)」から六つあとじゃから干支の相手としては三つ分前じゃな。ということは三十年も前のことか……。

 面倒な感じがしますが、それは我々が西暦や算用数字に慣れているからでしょう。昭和でさえ、敗戦後しばらくまでは通知表が「甲、乙、丙、丁」と表示されていたことからすると、甲が1番目、乙が2番目、丙が3番目、丁が4番目、……というのは、江戸時代の人には生活のごく当たり前の知識として、考えなくてもパッと使えるものだったはずです。我々が、3の二つ後は5とすぐ分かるように……。
 また、江戸時代は縦書きの漢数字で多変数の方程式や行列式に相当するものを扱った関孝和を輩出した時代です。一般の人の計算能力もバカにできないものがあったに違いありません。

 ちなみに……、十干は日本史、中国史、朝鮮史を学ぶときに、ちょっと便利なことがあります。十個だから、次のように常に西暦の下一桁と一致するのです。

   十干    甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸
   西暦下一桁 4、5、6、7、8、9、0、1、2、3

 たとえば、甲子園は、1924年(大正13年)にできました。「甲」だから4です。672年の「壬申の乱」は、「壬」で2。
「戊辰戦争は、大政奉還の1867年か明治元年の1868年かどっちだったっけ?」
と迷っても、戊が8であることを思い出せば、すぐに1868年が正解と分かります。
 朝鮮出兵とまとめられる1592年〜の文禄の役と1597年〜の慶長の役、朝鮮・中国で「壬辰倭乱」と呼ばれるのはどっち? となれば、壬は2ですから文禄の役と断定できるわけです(慶長の役の方は、丁酉倭乱で「丁」の7)。

 さらに、ちなみに、明治時代に一世一元の制が定められる前の元号は、天皇践祚(せんそ:新しい天皇の即位)以外にも、甲子改元(こうしかいげん:干支が最初に戻ったときに元号を変えること)、辛酉革命(しんゆうかくめい:辛酉という干支の際に天命が改まるとされていた)などの際に改められるのがほぼ定例となっていました。