--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.718 (2008.11.29)

Q. Julianさんからの疑問

「松の木」とか「チューリップの花」などは、「〜の〜」と言えるのに、なぜ「トンボの虫」とか「さんまの魚」と言うと違和感があるというか、よく分からない意味になってしまうのでしょうか……。

自分なりのお答えをお願いします。(星田)


A. みし丸さんから

 この質問は盲点を突かれたようでたいへん面白かったです。
 真剣に考えてみたところ、答えは意外に簡単でした。
 花はあくまでも花の部分なのですが、チューリップ全体をさすものと錯覚してしまっているのではないでしょうか(確かに全体をさす意味合いで使われていることもあるかも知れませんが)。
チューリップは、花や茎や葉や根から成り立っています。 したがって、「チューリップの花」に対しては「トンボの羽」、「さんまの尾びれ」などが等しい関係になるのではないでしょうか。

A. YOSHYさんから

「の」を付けておかしい場合とおかしくない物との差は、「の」の後にそのものの全体の概念の名称が来るのか部分が来るのかの差ではないでしょうか。
「松の木」はおかしくなくても、「松の植物」とか「松の樹木」はおかしいと思います(と言いながら「木」がどこに当たるのか不明ですが〜通常、松の葉をさし「木」とは言いませんので幹のあたりでしょうか。それとも、慣用句になってしまっているのでしょうか)。「チューリップの花」は明らかに部分をさします。
「サンマの魚」がおかしくても、「サンマの目」とか「サンマの口」というのはおかしくないですね。

A. ごんたさんから

「松の木」や「チューリップの花」は、

   「(種を表す名詞)の(部分の名詞)」

という構成になっています。
 しかし、「トンボの虫」「さんまの魚」は、名詞の並びが

   「(種類の一つ)の(種族全体の総称)」

となり、絞り込みが逆になっていて通じませんね。
 これが逆なら、「虫のトンボ」や「魚のさんま」となり筋が通ります。また、接続語が変われば意味もちゃんと通ります、
「トンボは虫」「サンマという魚」は例の一部です。これは日本語というより、言葉の規則として基本中の基本じゃないでしょうか?

A. 賢さんから

 端的に言ってしまえば、前後関係が違うからです。
「チューリップの花」のように「AのB」と言ったときには、「Aが持っているB」という意味です。
「チューリップという植物が持っている、花の部分(他に茎や根やつぼみもあるよ)」
「松という植物が持っている、木の部分(もっと狭く幹や実や葉もあるよ)」という言い方なので、おかしくないのです。
 ところが、「虫」は「トンボ」の一部や所有物ではなく、より大きい範囲を示す言葉です。「A・B」でAがBの一部である時に使われるのは「の」ではなく「は」です。「トンボは虫」という言い方になります。
 トンボで「松の木」と同じように「の」を使うと、「トンボの目」「トンボの翅」「トンボの脚」となります。
 松やチューリップで「トンボの虫」と同じように言ってみると、「松の植物」「チューリップの植物」となります。こちらはおかしいでしょう。

A. 洞窟ピングーさんから

「木」はそれなりに大きくならないと「木」とは言わない(小さいときは「苗」)ため、「松の木」でもそれ程おかしくはなく、「花」は草の一部(「根」「茎」「花」)なので「チューリップの花」でもおかしくないのだと思います。
 言い換えれば、「木」ではない(例えば未だ苗の)「松」や、「チューリップ」の「花」ではない部分が存在するからこそ違和感を感じないのだと思います。
 一方、トンボは幼虫でも蛹でも成虫でも「虫」には違いませんし、「魚」でないサンマもありえません。そのために「トンボの虫」や「サンマの魚」はおかしいのです。
「松の木」や「チューリップの花」の様な使い方としては、「トンボの幼虫」や「サンマの尾」が相当します。

A. ペンギン大好きさんから

 今までギモンに思ったこともないような質問に感心しました‥‥。この疑問を読んだときに感じた私なりの答えを述べさせていただきます。
 松やチューリップというのは、樹木や草花の名前です。ですので、「チューリップ」と言ったときには、秋に植えた球根から芽を出して春にかわいらしい花を咲かせるあの植物全体のことを指すことになるのだと思います。それは、松やトンボ、サンマなどについても全く同様です。
 ですが、人が「チューリップの花」とあえて言うときは、その植物全体を指しているのではなく、花壇できれいに咲いている「花」の部分だけを指しているような気がします。
「松の木」と言うときは、たとえば隣の庭に植わっている立派な松の「樹形」とか「幹」のたたずまいとかを指して話しているとか、あるいは、林にたくさん生えている木の中の「あの松の木」と指定するような場合……、うまくいえませんが、樹木には土の下には根っこもありますし、枝には葉が茂り、花も咲き実もなったりします。樹木を構成するいろいろな要素の中でもとくに「幹」を中心とする木のコアな部分(という表現もおかしいかと思いますが)について語るとき、「〜の木」と言うような気がします。
 この場合の「花」や「木」は、その植物が属している種類のことではなく、その植物の特定の「部分」とか、少し概念的な「要素」のことなのではないのかなぁと思います。
 だからたとえば桜は立派な樹木ですが、花見に行くとき「桜の木を見に」なんて言わないと思います。樹形とか樹皮の質感とかにはほとんど誰も関心ないですよね。たわわに実ったといいたくなるような勢いで咲き誇るあの「花」を愛でに出かけていくのだから「花見」なのでしょうし、桜に関しては「桜の木」ではなく「桜」あるいは「桜の花」と呼ばれるほうが圧倒的に多いかと思います。桜が多くの人にとって存在価値を持つのはまさに花が咲いている1週間前後だけであり、花が散って葉桜となり、他の木々の若葉も盛大に茂る季節になると、そこに桜が生えているということすら忘れられるほど「桜=花」なのだからだと思います。あえて「桜の木」と言われるシチュエーションがあるとしたら、名物の桜を切り倒す計画が出て、周辺住民が「あの木を切らないで」と嘆願書を役所に提出、みたいな状況くらいでしか聞かないような気がします。やはり、地表から上の部分が焦点になっている場合です。
 つまり、「トンボの虫」「サンマの魚」といった呼び方とは根本的に違うのだと思います。
「松の木」や「チューリップの花」は、たとえば「トンボの羽」とか「サンマの尾鰭」という部分指定の仕方や、「ペリカンの巣」「ニホンザルのオス」といった言い方に近いのではなかという気がします。

A. kztさんから

 まず「チューリップの花」については、「チューリップという種類の植物のうち特に花の部分」という意味なので、「チューリップの芽」「チューリップの葉」「チューリップの球根」とまったく並列に扱える表現です。「バラの花」「バラの棘」も同じですね。
 これが昆虫であっても、トンボの一部を指すときに「トンボの羽」「トンボの眼」と言うのと同じです。つまり「トンボの虫」、という言い方は言語として誤謬であるため、当然違和感があるということです。
 ではなぜ「松の木」というのか、に戻ります。これは日本語における樹木独特の言い方であって、「クスノキ」「ナラノキ」のように、古来から「○○の木」という言い方で、樹種を表現してきたということではないでしょうか。この場合、同じ助詞「の」を同じように用いていながらも、松という植物の一部を指す「松の実」「松の葉」とちがって、「松の木」がマツという樹木全体をあらわしているのです。

A. れっこいさんから

「トンボの虫」ですが、これは「虫」が「トンボ」や「カブトムシ」などの生き物の総称を示すから違和感があるのでしょう。「さんまの魚」もそうです。
 これに対し、「チューリップの花」は、うっかりすると「花」がチューリップやヒヤシンス等の総称のように見えますが、この場合、花というその植物の「部位」を表しているからでしょう。「チューリップの葉」や「チューリップの球根」と同様の表現です。それが証拠に「チューリップの花を見においで」と誘われた人が行ってみたら、つぼみばかりで花が一輪も咲いていなければ、不満に思うはずです。
 また、チューリップ等の総称である「草花」とか「植物」を「チューリップの」につけると「トンボの虫」と同様の違和感を感じるはずです。
 問題は「松の木」ですが、この場合の「木」は、松やイチョウなどの総称ではなく、その「松」の全体を現していると思います。「松の葉」が落ちているのでも「松の実」が転がっているのでもなく「松の木」が立っている状態等を表現したい場合に使うのでしょう。
 ちなみに「松」もその明らかな総称である「針葉樹」や「植物」をつけると違和感が生じます。

A. きいぱぱさんから

 松の「木」もチューリップの「花」も、それぞれの部位を表しているとも言えます。松には木(幹や枝)の他に葉や根があります。チューリップも花(花弁)以外に葉や球根がありますよね。いわば、「サンマの尻尾」とか「トンボの羽」と言ってるのと同じです。
 ……と、ここまではいいのですが、じゃあ「男の人」「女の人」という言い方はどうなんだ? と、考えたら分からなくなりました。

にょぶままさん、kappamanさん、江戸川三連豚さん、ともぽさんからも、回答をいただきました。ありがとうございました。(星田)