「三重」の地名は、ヤマトタケル(日本武尊、倭建命)の東征伝説に由来するとされています。
東国征服の戦いを終えたヤマトタケルは、その帰路、伊吹山の神を討ちとろうとしたのですが、逆に伊吹の神の毒気にあたって病気になってしまいます。
病の身をおし、伊勢を通って大和へ帰ろうとしたヤマトタケルでしたが、現在の四日市のあたりまで来ると体力が衰え、「私の足は三重に曲がり、とても疲れてしまった」と言いました。結局、彼は大和へ帰り着くことなく、今の亀山市のありで「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和しうるわし」という歌を残して亡くなってしまいます。
「足が三重に曲がってしまった」という彼の言葉から「三重郡」という地名が生まれ、それが「三重県」につながった、というわけです。
伊吹山から彼がたどったとされる道筋には「三重」のほかにも、「醒ヶ井」「当芸野(たぎの)」「杖衝坂(杖突坂)」など、この伝説に由来するとされる地名があります。もっとも、「古事記」などに書かれているこれらの地名由来伝説は「後付けの理屈」であることも多くて、「三重」の本当の由来が何であるかは、よくわかりません。
ところで上述の通り、「三重」とは本来、現在の四日市周辺の地名です。現在も「三重郡」に属する町村がいくつか残っていますね(ただし、明治以降の「三重郡」は古代の「三重郡」よりも広い範囲を含みます)。
一方、現在の三重県の県庁所在地である津市が属していたのは「安濃郡」。たとえば「岩手県」や「茨城県」「山梨県」などがそうであるように、県名の中には県庁所在地が所属する(していた)郡名を採用したものが多くあるのですが、なぜ県庁所在地の津ではなくて四日市の地名である「三重県」なのか、というと……、
1871(明治4)年7月の廃藩置県の後、同年11月に現在の三重県の北半分が1つの県にまとめられました。県庁を津(安濃津)に置いたので「安濃津県」と呼びました(一方、現在の三重県南半は山田(現伊勢市)に県庁を置く「度会(わたらい)県」にまとめられました。「度会」とは、山田が度会郡に属するからですね)。
ところが津は安濃津県の中では南に偏りすぎていたので、1872(明治5)年3月に県のほぼ中央に位置する四日市に県庁が移されました。同時に県名も四日市の所属する郡名から「三重県」と改称されました。しかし、四日市に移された県庁は手狭であったという理由で、1873(明治6)年12月に再び県庁が津に移されます。けれども今回は「安濃津県」または「安濃県」への再改称は行われず、「三重県」のまま県庁だけが津に戻ったのです。
1876(明治9)年には度会県を合併して、現在の「三重県」となりました。
★sekisanさんからも、回答をいただきました。ありがとうございました。