Q. 真美さんからの疑問
時代劇を見ていますと、遠くにいる家族に手紙が届くというシーンがよく出てきます。大河ドラマ『龍馬伝』では、土佐と江戸の間での手紙のやりとりが何度となく出てきます。
江戸時代の郵便制度はどのようになっていたのでしょうか?
――こんな疑問ですとかなり専門的になってしまうと思いますので、もっと具体的に。
私が江戸時代にいたとして、手紙を送るためには、どうすればいいのでしょうか?
料金は? 郵便局は? 住所なんてあったの? から始まって……、
日数は? 紙は? 封筒は?
どうぞ、よろしくおねがいします。
★自宅まで届けてくれるのかな?(星田)
A. 江戸川三連豚さんから
江戸時代の手紙の輸送の基本は「人づてに頼む」です。
江戸−京−大坂のような幹線には飛脚がシステムとしてありましたし、それ以外の地域の大名も、江戸−領地間には個別に飛脚問屋を契約して置いていたようです。
ただし、各藩の役人や天領の役人なら公用飛脚に混ぜて私用の手紙を郷里の家族に送れたでしょうが、平民は?
まぁ、非常に役人に顔が利く平民ならともかく、普通は江戸−京−大坂の飛脚を商用に使う程度がせいぜいだったようです。
商人以外の、それも私信はどうしていたかと言えば、主に目的地の方に行く商人に金を渡して頼む「人づて」がほとんどだったようです。
目的地まで行かない場合、途中で別の人にお金を渡して頼むということになったようで、当然、たどり着かない手紙も多かったようです。
当時の住所は、「町」くらいまでしかわからず、その「町内」でまた誰かに聞くか、誰かに託すということで届けられたようです。
歴史小説で、長州にいた学問の先生を訪ねたら、山形に招聘されていたそうで、「来年、山形に伺います」と手紙を江戸に向かう人に託したら、江戸まではすんなり来たけれど、山形へ行く当てが無く、長期に江戸で滞留。結局、手紙を書いた人が山形に行った方が早かったという逸話がありました。
その後、手紙の早さの説明の詳細があり、ほとんどの手紙は徒歩より遅かったと出ていました。
A. まいねさんから
こんにちは。いつも楽しませて貰っています。
江戸時代は専門でないのでしばらく控えていましたが、とりあえず素人の認識をご披露いたします。
私が江戸時代にいたとして、手紙を送るためには、どうすればいいのでしょうか?……に対するお答え。
あなたがお武家の方の場合、とりあえず読み書きはできると仮定します。できなかった場合は、とりあえずご家族にきっとできる人がいると思います。その人に代筆してもらいます。
お手紙の内容が恋文や、女性同士の込み入ったお話だった場合ちょっとあれですが、その場合は近所のお寺のご住職にでもお願いしてください。僧侶というのはある意味知識階級なんです、洋の東西を問わず。徳のあるご住職の場合、代筆をしながらその込み入った相談の相手もしてくれて、カウンセラーやコンサルタントの役目も果たしてくれると思います。感情のもつれじゃなく、訴訟関係だったとしてもね。でもまあ、武家の女性の恋文は、時代柄お坊様はちょっと待ちなさいとか言って書いてくれないかもですね。
紙は巻紙です。障子紙のようなもので、もっと厚くて上質の、お手紙や書類専用の紙がありました。巻いたまま左手に持って、端っこは右に垂らしておいて、手前に見えている面に筆で書いているシーンは時代劇でもよく見られると思います。これなら罫線がなくても机が狭くても何とかなりますね。
書いたところから繰り出してどんどん白い方に書いていきます。右側には既に書いた部分が垂れていきます。
書き終わるとそこで(署名とかの余裕を持って)小刀かなんかで切ります。お殿様とかなら自分のサイン(花押)をしますが、普通のお武家のお嬢様だったら自署すればいいと思います。字の書けない方は、たしか爪印というものがあって、そこに爪で印を付けるなり、拇印もありだったかと思います。恋文に拇印は重すぎると思いますが。その辺はケース・バイ・ケースで。
書き終わると文末からくるくると巻いてぐっと押しつぶしてました。そうすると、いい感じに平たい紙の巻いたのができます。
読むときには引っ張って少しずつ広げて最初から読めるわけです。それを、包み紙に入れて、結婚式のときのお祝儀袋のように左右から3分の1ずつ畳んで、そのあと上下を折り返して包みます。表書きはそこへ。「上」とか書いてあるの、時代劇で見た気がします。受取人の名前はそこへ書きます。住所はちょっと覚えがありません。
手紙本体はそうやってつくるとして、宛先は、何々藩、なんとか郡、村の名、何々家の何様で行くと思います。
江戸時代は中期以降飛脚システムが発達していましたので、町飛脚に任せて大丈夫と思います。
これがご公儀(江戸幕府)や藩の公の書類だったりすると、継飛脚、大名飛脚なんて専門の組織を抱えていたそうです。
一目で判るスタイルで、防犯のため長脇差しを差した足の自慢の飛脚達が各宿場をリレーして確かに配送してくれるシステムだったようです。
日数と費用についてはこちらのサイトが表にしてくれているのでご参照ください。
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/watashi/hikyaku.html
東海道の江戸京都間は歩けば14〜15日だそうですが、各宿場では物流が豊かになるにつれ公の書状のやりとりに忙殺され、庶民の出した書状は後回しにされることが多く、宿場の段階で止められて時間がかかって延着となることが増えたようです。
もともと、毎日出発ではなく、月に3回まとめての発送だったとも言います(三度飛脚といった)。それで、江戸後期には速さを最優先のチャーター便がおかれ、これは3日半で着く代わりに7両2分という庶民にはちょっと出せない(40万円という換算値が載ってました!)価格であったようです。
「荷物の隅っこにでも入れてください」という並便は20日以上かかって銀三分といいますから、庶民はこちらで。それでも3/4両と思うと4万円近いと思うのですがいかがでしょうか? 江戸時代の文通は大変と思いました。
江戸時代は住宅地図も発達してましたから、表書きがちゃんとしてれば江戸城下なら飛脚がきちんと届けてくれたと思います。
現在の郵便システムは飛脚システムを吸収しつつ明治に前島密(1円切手の人)が整備したんだそうです。
お武家のひとはそれでいいとして、町方や農村はというと、大家さんや名主さん宛になります。長屋の大家さんはその近辺の税金なんかも代表して払っていて、なかなか責任が大きかったようです。
農村などでは(お武家でも、飛脚は普通のひとがそうそう利用できるものじゃないかったと思いますよ)、飛脚の問屋が近くにない、または、費用が用意できないという場合、旅立つ人に託すというのがあったと思います。飛脚を使うまでもない同じ城下とかの場合も、信頼できる人に託すというのがいちばんだったでしょう。
江戸時代に飛脚制度が発達するまでは、そういう商人や山伏がその役目を担っていたようです。ただし、プロじゃないので、その辺は託した人の信義に任せるということで、届かない可能性も大きかったでしょう。そうでなくても、同封した金品を取られたり、内容を読まれたりというのは覚悟しなくてはならなかったでしょうね。
以上、時代小説の記述などを思い出しつつちょっと書いてみました。
A. Sagaさんから
庶民が利用する飛脚には2種類あります。
・町飛脚(まちびきゃく)
・定飛脚(じょうびきゃく)
(1)飛脚の概要
現代の郵便に相当し、手紙・書類・小荷物を送ってくれる。
(2)2種類の飛脚概要
町飛脚……地域内に対する荷物を扱う
定飛脚……地方から地方に対する荷物を扱う
(3)町飛脚
安政元年(1854年)の冬から始まったもの。市内の手紙を集配した。
(注)資料には書かれていないため私の想像ですが、棒手売(ぼてふり)の商売人のように、ごよう聞きしながら集めたというのではなく定飛脚問屋に持って行ったのだと思います。
現代の郵便制度ができるまで、飛脚を使うということは裕福な人ぐらいで庶民とはあまり縁のないものとだったはずです。
届け先は、○○町△△長屋の××さんで特定できるので、自宅まで届けてくれたはずです。
ちなみに長屋(ながや)は今でいうアパートのようなもの。
(4)料金
HPを参考にしてください。
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/watashi/hikyaku.html
(5)江戸と各藩とのやりとり
大名飛脚(だいみょうびきゃく)と呼ばれる公文書(荷物を含む)を運ぶ制度が各藩で整備され、国許と江戸藩邸を結んでいました。
ですが、維持費がかさむため商人に委託するようになり、その制度を庶民用にしたものが町飛脚・定飛脚になりました。
龍馬も、江戸で修行をしていた時は藩の制度を利用して実家に手紙を送ったことでしょう。
もちろん、その1通の手紙のためだけに藩の制度は利用できないでしょうから、たくさんの人の手紙や荷物をある程度まとめて送った中の一通として扱われたと想像できます(確定的な書き方をできなくてすみません)。
(5)その他
藩が違うということは、国が違うということに等しいので、国境を越えて物を運ぶということを庶民が気軽にできたとは考えにくいです(有力な商家は別として)。
それだけ、国許を離れるという行為は大変なことで、手紙で安否が伝わるというのがどれだけ嬉しいことなのかが想像できます。
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