--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.873 (2010.12.14)

Q. SHOWさんからの疑問

 最近、子どもが勉強をしているのを横で見ていて驚いたことがあります。
 社会の歴史の教科書なのですが、どう見ても「仁徳天皇陵」としか思えない前方後円墳の写真に「大仙古墳」と書いてありました。
「これって仁徳天皇陵じゃないの?」
と思って、子どもに聞いてみたら、
「何それ? これは大仙古墳だよ」
と平然と答えます。
 仁徳天皇陵を差し置いて大仙古墳の方が歴史的に重要なのかと思って自分で調べてみたら、やはりそれは僕たちが昔習った仁徳天皇陵でした。
 つまり今は歴史的な解釈上、「仁徳天皇陵」とは言わず「大仙古墳」と呼ぶのが一般的になっているようです。恥ずかしながら大阪に住んでいて、そんなことになっているとは知りませんでした。
 同じく、昔は「安藤広重」と習った浮世絵師を、今は「歌川広重」と教えていたり、僕たちが子どもの頃学校で習ったのとは違う名前で今の学校の授業で教えていることが多々あるようです。
 きっと
歴史の研究が進んできた中、今では、子どもの頃習ったのとは違う歴史的事実や解釈で教えていることが他にもたくさんあると思います。それを教えてください。
 ただし、南京事件や従軍慰安婦問題は、議論が白熱しそうなので、除かせていただきます。

議論をするのではなく、こんなことがあるらしいよという例をくださいね。(星田)


A. 子沢山さんから

 まとまりのない雑学です。
「〜らしい」「〜という説もある」を列挙してみました。

(1) 鎌倉幕府成立は1192年ではなく、それ以前の1185年には実質的に成立していた。

(2) 聖徳太子像、源頼朝像、足利尊氏像が、怪しいとされている。
 かつてお札にも使われていた聖徳太子像だが、生前の肖像画ではなく後世のものらしい。もともと聖徳太子という名前自体が、本人が亡くなった後に生前の功績をたたえてつけられたものであり、厩戸皇子(うまやどのおうじ)が本名。しかも皇子がつけている冠や衣服は、皇子の生きていた時代より後のもの。
 源頼朝像は足利直義像ではと言われており、足利尊氏とされていた騎馬の絵も、足利家執事である高師直など別人らしく、今では単なる騎馬武者像として紹介されている

(3) 忠臣蔵の題材となった、赤穂浪士のよる吉良家討ち入りは、極秘裏に進められた奇襲などではなく、日付などの詳細は別としても、幕府は事前になかば公認しており、そのことを周囲の町人に通知していたという説が有力です。
 でなければ、夜間の往来すら制限されていた厳格な管理社会の江戸の町を、早朝から本懐を遂げた志士たちが徒党を組んで行進したり、町人達が志士達を歓喜の声で迎えたり、ねぎらったりはできない。

(4) 豊臣秀吉最大の愚行とも言われた朝鮮出兵は、当時の経済学的事情から、やむをえず選択した政策だったという説がある。
 当時は封建社会で、主従関係は土地を仲立ちとして成立しており、秀吉も家来の武功に対して、新たに占領した土地を恩賞として与える形で膨張政策をとっていた。
 ところが、天下を統一してしまった以後は、もはや与えるべき土地はなく、当時はいまだ貨幣経済が成熟していないなど、土地にまさる新たな価値が出現していなかった。
 そのため、無茶を承知で、新たな土地獲得を目指さざるを得なかったという理由。

(5) 田沼意次は、悪徳収賄政治家ではなく、当時としては珍しく、貨幣経済に精通する開明的な政治家であった。しかし、銭は汚いものという旧態依然とした意識から、貨幣経済の発展に否定的な政策をとる将軍徳川吉宗や幕閣から、田沼の政策は否定され、悪人に仕立てあげられたという見方もある。

A. ちゃいろちゃいろさんから

 幼いころよりわりと歴史は好きで、歴史読み物を読みあさっていました。最近になって、その頃の知識と大きく違って驚いたことは多々ありますが、個人的に2点あげます。

1)足利尊氏の肖像
 教科書や、歴史漫画などで著名な元結を切って騎馬に乗った尊氏の肖像画がありますが、これが尊氏ではないとのこと。騎馬の馬具の家紋が違うのだそうです。武士にとって家紋は命ですので、間違えるはずがないとのことで、高師直かその子孫ではないかということでした。
 頭の中の尊氏のイメージがあの肖像画でしたので、イメージのすり替えが大変でした。最近の教科書からは削除されていると聞いています。

2)真田幸村の本名
 戦国武将として大変人気のある真田幸村ですが、該当人物の本名は真田信繁だそうです。
 幸村という名前は同時代の資料にはなく、江戸時代になってからの軍記物が初登場と聞いて、かなり衝撃を受けました。
 しかしあまりに幸村の知名度が高いので、いまさら変更は大変らしくテレビでの幸村特集でも「本名は信繁です」とさらっと流されていました。

 他にもいろいろな歴史の常識が覆っている点が皆様から出てくるのが楽しみですが、一度普及した常識を変更するのはなかなか大変なことかと思います。
 疑問の仁徳天皇陵も、観光案内などではまだ変更されていないものを多々見ます。仁徳天皇陵で覚えた世代が、いきなり「大仙陵古墳」と案内されても、「はぁ?」ですよね。

歴史というのは、昔のことですから、よほどの証拠がないかぎり、「〜というのが定説だ」です。その「定説」が変わってきているのですね。
 雑学を扱っているこのようなメルマガ上で「定説論争」をやっても仕方がありませんから、「こんなことを聞いたことがあるよ」程度でかまいません。さらなる情報をお待ちしています。
 議論をするのではなく、こんなことがあるらしいよという例をくださいね。(星田)