子どものころから疑問でした。文の終わりは終止形で終わるのがふつうの素直な日本語です。しかししかし川柳では、連用形で終わるのが暗黙の慣例となっています。これはなぜでしょう?
有名な古典的川柳を例に挙げますと、
役人の子はにぎにぎをよく覚え
居候三杯目にはそっと出し
どっからか出して女房は帯を買い
へぼ将棋王より飛車をかわいがり
これが、もし
役人の子はにぎにぎをよく覚ゆ
居候三杯目にはそっと出す
どっからか出して女房は帯を買ふ
へぼ将棋王より飛車をかわいがる
のように、素直に終止形で終わっていては、川柳の雰囲気がまるで出ないのです。どうしてでしょうか?
川柳でなく俳句でもそうで、小林一茶の有名な句
やせがえる負けるな一茶ここにあり
の末尾がもし「ある」だったら、なんか調子が狂います。
いっぽう形容詞はというと、ふつうに終止形で終わり、
親孝行したいときには親はなし
このように連用形なんかでは終わらない。ほんとうに一貫性がありません。誰か納得のいく理由を教えてくださいますか。
★こういう疑問は、答えるのがむずかしそうですね。(星田)