--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.908 (2011.06.11)

Q. kztさんからの疑問

 子どものころから疑問でした。文の終わりは終止形で終わるのがふつうの素直な日本語です。しかししかし川柳では、連用形で終わるのが暗黙の慣例となっています。これはなぜでしょう?
 有名な古典的川柳を例に挙げますと、

  役人の子はにぎにぎをよく覚え
  居候三杯目にはそっと出し
  どっからか出して女房は帯を買い
  へぼ将棋王より飛車をかわいがり

これが、もし

  役人の子はにぎにぎをよく覚ゆ
  居候三杯目にはそっと出す
  どっからか出して女房は帯を買ふ
  へぼ将棋王より飛車をかわいがる

のように、素直に終止形で終わっていては、川柳の雰囲気がまるで出ないのです。どうしてでしょうか?

 川柳でなく俳句でもそうで、小林一茶の有名な句

  やせがえる負けるな一茶ここにあり

の末尾がもし「ある」だったら、なんか調子が狂います。

 いっぽう形容詞はというと、ふつうに終止形で終わり、

  親孝行したいときには親はなし

このように連用形なんかでは終わらない。ほんとうに一貫性がありません。誰か納得のいく理由を教えてくださいますか。

こういう疑問は、答えるのがむずかしそうですね。(星田)


A. まいねさんから

 これは、川柳の成立のしかたに拠っています。
 俳句が中世の連歌から生じたように、川柳も、最初は五、七、五で成立するようにはできていなかったのです。

 ではどのようにかというと、川柳の名は選者の柄井川柳からといわれています。
 選者? そう、川柳は、江戸庶民の趣味人たちに、滑稽な和歌の下の句だけを先に提示して、これに合った上の句を付けて読む人を唸らせてくださいという趣向の遊び(前句付け)だったのです。
 ですから、川柳の古典、

   盗人を捕えてみれば我が子なり

 これには

   切りたくもあり切りたくもなし

という下の句がちゃんとあるのです!
 そして、これよりはマイナーな同じ題への入選句、

   清(さや)かなる月にかかれる花の枝

というのもあるのです! どうです、こっちは文学的でしょう?

 そして、どちらの句も
「切りたいような、切れないような……」という下の句にかかると、うう〜ん
と唸っちゃうのです。

 こういう遊びは意外と昔からあったようです。平安貴族でも、下の句を言いかけて、「どうよ?」と言うと、挑戦された方も即興でビシッと返す、なんて素敵たまんない! なんて話が、歌物語とか、説話集とかにいろいろ出てます。
 有名なところだと、前九年の役で安倍貞任が源義家に挑まれて返して、なかなかやるじゃんと言われています。

「衣の館はほころびにけり」
   衣の縦糸がほころびるように無敵の衣川の館も落城の時を迎えたな、

と呼びかけると

「年を経し糸の乱れの苦しさに」
   そりゃ長い戦いだったからね、古い布の糸がほつれるようなもんで

と返したと言い伝わっています。

 上の句を出して下の句を付けると言うやり方もあります。
 天下が治まって、秀吉が御伽衆なんかに無理な上の句で題を出したのに見事な下の句をつけて、曾呂利新左衛門かっこいい! って話も伝わってます。
 流行しました。とっても。
 例の

   居候三杯目にはそっと出し

の句も、今風に言うならこんな題があってそれに繋がっていたんじゃないでしょうか?

   読まないようで空気読んでる

 それで、次へ繋がるために「連用形」で終わる形が主流になり、俳諧との差別化のために連用形で終わるというのが不文律のようになっていったと思われます。
 そのうち、「盗人を〜」の句のように、下の句がなくても成立するの句が増えてゆき、俳句同様、独立して五、七、五だけでおかしみを追求するようになっていったと思われます。