Q. よっちゃんからの疑問
テレビ等で落語を見ていると、上方の師匠方は、机を前にして演じることがありますが、関東の師匠方には、ほとんどこれが見られません。
これには、ルーツ・演じ方・その他の違いから来ているのでしょうか?
今朝の桂文枝師匠は、片肘を机に付けながら演じられておりましたので、ふと疑問に思い質問させていただききます。
★カンニングしているわけでもなさそうですし……。
A. まいたけさんから
落語のルーツというか、基本形のようなものは、おそらく江戸落語も上方落語も講談から来ていると思います。講談には上方落語のように見台やハリセンがあります。
上方落語は、講談でも使用する話を盛り上げる手法をそのまま残したのだと思います。どちらもところどころで、見台を拍子木やハリセンでパシーンといい音を出して叩いたりしますし、三味線や太鼓の音を入れたりもします。
一方で、恐らく江戸落語は必要最小限のもので笑いを生み出すことを、芸として追求したんだと思います。ネタ・噺し方・仕草の巧みさで勝負し、音はほとんど使わない。それでも観客を惹きこむ雰囲気を充分に作れてこそ、多分「粋」だったんじゃないかなと(ごく稀に、江戸落語でも囃子を入れることがありますが……)。
A. 子沢山さんから
上方落語の道具の特徴として、見台(小机)、小拍子(小さな拍子木)、膝隠し(見台の前に立てる小さなついたて)の3つがあります。
一方、江戸の落語の小道具は、扇子(「カゼ」と言います)と手ぬぐい(「マンダラ」と言います)だけが基本です。また、はめものと言われる、噺の途中に三味線、太鼓、笛などのお囃子、すなわちBGMが入るのも上方落語ならではでしょう。
この差は、落語の発祥が上方と江戸で別々に起こり、その後あまり交流がなく、別々に発展したことに由来しています。
上方落語の発祥は、江戸時代初期に、露の五郎兵衛が、京都四条河原などで道行く人々を相手に、「辻咄(つじばなし)」を始めたことだと言われております。また、大坂(大阪)では、米沢彦八が同様の辻咄を始めております。
このように、上方落語はかなり長い間、路上や寺社などの人通りの多い野外で行われ、道行く人々に足を止めて聞いてもらうために、ピシャリ、ピシャリと音をたてたりして、賑やかに行うことが常でした。また、今でも上方落語は、賑やかなことを好む関西人気質の影響か、噺家のアクションもオーバーな傾向があります。
一方江戸でも同じ頃、大坂の出身である鹿野武左衛門が、芝居小屋などで、「座敷仕方咄」を始めています。その後、江戸では早くから落語が座敷で語られるようになり、客と近距離でじっくり聞いてもらえる環境で発展していきました。
やがて、上方でも江戸でも寄席ができて、落語は寄席で語られる芸能に発展していくのですが、先のような差がそのまま引き継がれていき、上記のような差が生じたようです。
明治時代に入ってからは、徐々に上方と江戸で交流が生まれ出します。双方で、様々な流派が栄枯盛衰を繰り広げるのですが、明治時代末期に上方落語界では、興行形態の疲弊や大物の死亡などが重なり旧勢力が著しく勢いを落とします。
その時期に、吉本泰三、せい夫妻の吉本興行部(後の吉本興業)が次々と寄席を買収し、買収した席に「花月」と名づけ一大勢力をなし、大正時代には上方落語は吉本の独占状態になりました。さらに、吉本は東京にも進出し、神田や浅草などの寄席を次々と手に入れ、吉本流の寄席興行が東京でも行われるようになりました。
その結果、東京でも上方の流儀の一部が移入されます。その一つが「出囃子」で、それ以前の東京では、「片シャギリ」という太鼓だけで、噺家は高座に上がっていたのですが、上方の噺家がお囃子で賑やかに登場するのに影響され、東京でも定着しました。その他、噺家の名札を高座に出す「めくり」や、高座の奥を狭く手前を広くする「じょうご型」に舞台をこしらえるのも上方から入ってきた風習だそうです。
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