Q. toshiさんからの疑問
日本のひらがな、カタカナでは、「゛」をつけると濁音を意味しています。
「か」の濁音を「が」、「さ」の濁音を「ざ」、「た」の濁音を「だ」と表すのは、それぞれの口の動きが同じだからだろうと思います。
そうなると、「ま」の濁音が「ば」ではないでしょうか?
どういう経緯で、 ba,bi,bu,be,bo
を「は行」の濁音として表すようになったのでしょうか?
もちろん、半濁音についても同じ疑問を感じています。
★なるほど〜。たしかに、「は」の音に濁点を付けて発音しようとしてもできませんね。
A. ごんたさんから
以前の質問で「一本、二本、三本……」や「一分、二分……」の読みに関する質問があった事を思い出しました。また、星田さんも素朴な疑問のNo.891で「ム」に濁点という話をされていますね。
たとえば、一本〜三本では「本」という文字は共通していますが、それをひらがなで表記したとき、toshiさんの主張に沿って濁音をま行の文字に置き換えると、
いっぽん → いっも゜ん
にほん → にほん
さんぼん → さんも゛ん
と表記されることになりますね。
また「日々」などのように同じ文字を重ねた言葉の読みも、
ひび → ひみ゛
となります、
このように漢字の読み仮名が直前の文字の影響で濁る場合と濁らない場合で文字を変えると、文字の構成に統一性が無くなってしまいます。
確かにか行とさ行の場合は同じ口の形で発音しますが、それが全ての濁音に共通する特徴ではないということが、は行で示されていると考えた方がよいのではないかと思います。
この問題は日本語である「ひらがな」が漢字(表意文字)をベースにしたで文字あることに影響するものではないかと思うのです(素朴な疑問No.897に関連することでもありますね)。同じ文字を使う言葉に別のカナ文字で読みを付けるというルールは表音文字を伝統とする国であれば許される意見なのではないかと思います。
A. Haruさんから
「は」行の濁音や半濁音について、あれは「ま」行とすべきではないか?
確かに、唇の動きから行けばおっしゃる通りなのですが、50音すら無かった江戸時代に「かな書き」された書では、「は」行で表された記述が、発音上では「ば」だったと思われるものが多いのです。特に「はかばかし」などの繰り返し語などで多く見られます。
半濁音については、明治後期になってからだと思いますが、それでも「頻々と」などを逐語表現すると「ひんぴんと」となるわけで、「ひ」の半濁音として「ぴ」が慣用的にはしっくり来ます。
「出題」をひらがなで書くと「しゅつだい」ですが、では口語で正しく言っているでしょうか? 会話の途中では「しつだい」と発音してる人も多いかと思います。
それでも意味は通じるわけで、そういう曖昧さが日本語の特徴なのかもと思いいます。私のようないい加減な人間には、日本語の柔軟性が非常にありがたいのです。
A. 如熊夢さんから
「は行」の発音は、むかしP音(pa、pi、pu、pe、po)であったものが、F音(fa、fi、fu、fe、fo)の時代を経て、現在のH音(ha、hi、hu。he、ho)へと変化してきたのだそうです。
それを踏まえると「ばびぶべぼ」はP音の頃の「はひふへほ」を清音とする濁音であり、その後「は行」がH音に変化してP音は「ぱぴぷぺぽ」表記の半濁音扱いとなった。と考えるのが納得しやすいのではないでしょうか。
余談ですが「ま」の濁音とかいわれると、私のような古い特撮ファンはジャイアントロボの発する声を連想してしまいます。
★「ジャイアントロボ、メガトンパンチだ!」「マ゛」
A. YOSHYさんから
私の知識ではなく、30年ほど前に聞いた話からの類推です。
平安時代か江戸初期ぐらいのとんちに、
「母のときは二回会い、父のときは一度も会わないものは何か?」
というものがあり、その答えが「唇」であった(と思いますが、「歯」だったかも……)そうです。
しかし、そのような答えになる理由が、長い間誰にもわからず、研究の結果、ようやく、そのころの「ha」行は「fa」行だったということがわかったそうです。そう言えば、「ふ」は「fu」ともあらわします。
もしそうであれば、「は」行の濁音は「ba」行でもよさそうです(正確には「va」行かもしれませんが)。
外国人が日本語を彼らにとってわかりやすい方法で表記するときに、ローマ字を使うわけですが、かなり無理があります。
たとえば、「さ行」と「た行」の濁音はどうなるでしょうか。
「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は表記こそ異なりますが、実質同じ発音になっています。日本語の場合、英語の
bridge の「じ」と同じ子音になっています。
「zu ,zi」の発音は大半の日本人にとっては非常に難しい発音です(フランス語を勉強された方はよくご存じだと思います)
また、現在の「ら」行は明らかに「la」行で「ra」行の発音はかなり難しいはずです。これについては、100年あまりの間に変化したのかもしれませんが……。
A. ヤコピさんから
濁音は清音と口の動きが同じだろうというご推察はその通りです。
濁音と清音の関係をもう少し分析的に書くと、
子音の発声の瞬間に無声の(声帯が振動しない)ものが清音で、それと同じ調音法で有声の(声帯が振動する)ものが濁音です。
国際音声記号 (IPA) では、各音声を、無声有声、調音位置、調音方法の順で並べて分類しますが、この方式で分類すると、カ行、サ行、タ行の清音と濁音は、以下のようになります。
基本的に、清音と濁音は、同じ調音位置、調音方法で、有声と無声という関係になっているのが読み取れます。
カ行(k):無声軟口蓋破裂音
ガ行(g):有声軟口蓋破裂音
サ行(s):無声歯茎摩擦音
ザ行(z):有声歯茎摩擦音
タ行(t):無声歯茎破裂音
ダ行(d):有声歯茎破裂音
同様に、ご質問のハ行について、清音、半濁音、濁音を、国際音声記号で表してみると、以下となります。
ハ行(h):無声声門摩擦音
パ行(p):無声両唇破裂音
バ行(b):有声両唇破裂音
ここで気づくのは、パ行(p)とバ行(b)が、清音と濁音の関係になっているということです。
実は大和時代頃は、ハ行(h)の音は、パ行(p)で発音されていたのではないかと言われています。
「ハヒフヘホ」が「pa pi pu pe po」と発音されていたとすると、「バビブベボ」は「ba
bi bu be bo」なので、当時はハ行でも清音と濁音は有声と無声という関係を満たしていたことになります。
しかし、時代が進むにつれ、ハ行の発音は、「パ
→ ファ → ハ」と変化し、有声と無声という関係が崩れました。
並行して、外国から言葉が大量に流入した際には、p音とh音を明確に区別する必要が発生したので、p音は半濁音で表記する体系ができあがって現代に至ります。
もしこのときに、p音をハ行、b音をバ行で表記し、h音を半濁音で表記しておけば、ハ行においても、清音と濁音は有声と無声という関係が保たれたのですが、それだと従来のハ行を書き直さなければいけないので、現実的には無理だったと思われます。
ちなみに、この有声無声の関係に従うと、現代のハ行(h):無声声門摩擦音の濁音は有声声門摩擦音であり、有声でハ行を発音することで得られます。
たとえば、「魔法(まほう)」を発音すると、「ほ」の発音の際に声帯が一瞬停止しますが、これを止めずにずっと声帯を振動させたまま発音すれば、「ほ」が現代のハ行の濁音となります。
A. ねしあんさんから
「ば行」問題について、すでに正解は出ておりますから(特にヤコピさんの巧みな説明に感謝)、余計なおせっかいかもしれませんが、ちょっとだけ補足させてください。
YOSHYさんご指摘の謎は、『後奈良院御撰何曽』(1516)に見える
はゝには二たびあひたれどもちゝには一度もあはず
こころは「くちびる」ですね。
この謎解きに成功したのは『広辞苑』で有名な新村出です。つまり古代日本語の語頭の
p の発音が次第に弱まり、両唇無声摩擦音
[Φ] になり(上代末から平安初期)、やがてそれもさらに弱まって
[h] に変化してしまいました(室町頃(14世紀)から元禄頃(1700年前後)にかけて)。
両唇無声摩擦音の[Φ]は、ろうそくを吹き消すときのような音、つまり、ファ、フィ、フェ、フォです。「フ」だけがまだ昔の音をそのまま保っています。Φは面倒なのでよく
F と書かれます(厳密には small capital F
)ので、唇歯音の f と混同されることがよくあります。
日本人はいまだに f の音は苦手ですよね。「野球のファン(fan)」も「フアン」と発音してしまう。おそらく日本語の歴史上、fの音は一度も現れたことはないと思います。
なお、以上は語頭のハ行音の話で、語中のハ行音は
[Φ] からさらに弱まって、[w]
になってしまいました。「私は」などの「は」が
[wa] であるのはそういうわけです。しかし、それも
a の前だけで(「かは 川」など)、その他の母音の前だとさらに弱まり、ついにはゼロになっています(「こひ
恋」「まへ 前」「かほ 顔」など)。
しかし、それでは「はは 母」が「はわ」にならないのは何故か、と疑問に思ったあなたは偉い!
何事にも例外はあるものだから、これもその例外の一つ、という考え方もあるかもしれませんが、この場合はたぶん日本語の親族名称に単音節の繰り返しが多い(ちち、てて、かか、じじ、ばば、など)という別のルールに倣って、二次的に「はは」になったのでしょう。
他にも「ほほ 頬」などという例外もあります(しかし「ほおべに
頬紅」「ほおばる 頬張る」「ほおづき
酸漿」などでは法則通り「ほお」になっています)。文字が普及してからの
reading pronunciation が影響したかもしれません。
ついでに、「あはれ」が一方では「憐れ」になり、一方では「あっぱれ(天晴れ)」になっていますよね。促音になると以前の
p 音が残っているわけです。昔、「あはれ」は「感動する、心が動かされる」という意味でしたから、両極端の意味に変化してしまいました。
なお、強調したいときに語中子音を促音にする例は、ほかにも「やはり」「やっぱり」「それきり」「それっきり」など、現在でもたくさんありますね。
こういうふうに、p が h/w
になってしまったとは言っても、日本語には常にp
音はなくならずに、存在し続けただろうと思います。擬音語もありますし。
それじゃ、古代から奈良、平安朝の日本語には
h 音はなかったんだろうか?
おそらくなかったと思われます。だからこそ、「ニーハオ」の「好
hao」が「かお kao」からさらに変化して「こうkou」と発音されたり、「シャンハイ」の「海
hai」が「かい kai」になったりしています。
つまり、漢字が日本語に取り入れられたとき、h
がないのでやむなく、それにいちばん近い
k という音で代用して受け入れたというわけです。英語の
th の音が現代日本語にないので、仕方なくサ行・ザ行音で取り入れている事情と同じです。
しかし、そうするとむかーし昔は、神武天皇の祖父「ひこほほでみのみこと
彦火火出見尊」は pikopopodeminomikoto と発音していたのだろうか? そんな滑稽な名前でいいのか? こう思う方もおられるかもしれません。
いいんです。当時は p 音の単語はごく普通にたくさんありましたから、滑稽でも何でもありません。言語というのはそういうものなんです。
そしてまた、どうして古代のハ行音が
p だったと分かるのか? そしてそれが
Φ になりさらには h/w
となったといえるのは何故か? しかもその時代までどうして特定できるのか? その証拠は何か?
等々、疑問は次から次へと湧いて出ることでしょう。頭のいい人ほどそうであるに違いありません。
それから YOSHI さんの疑問、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の違い(いわゆる四つ仮名の問題)など、答えるべき項目はたくさん残っていますけれど、あまりにも長くなりますので、ひとまずここまでとしておきます。
長文たいへん失礼いたしました。最後まで読んでくださっ方々、有り難うございました。
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