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疑問No.1127 (2014.12.26)

Q. kiikomachiさんからの疑問

 安土桃山時代に、日本は西洋と貿易していたそうです。交通の発達していなかった時代ですから、行き来するのにものすごく時間がかかっていたはずです。少年使節がローマへ着くのに3年かかったと聞きました。どのようなルートを使ったのだろうととても気になります。
 また、
もし3年もかかったのだとしたら、途中で品物が破損したり、傷んだりしなかったのでしょうか? 貿易がきちんと成り立っていたのかが不思議なのです。

3年もあれば、政治の状況も大きく変わるでしょうしね〜。


A. Issieさんから

 16世紀後半の「南蛮貿易」、相手国がポルトガルやスペインだからヨーロッパとの貿易が中心だと思われがちです。確かにヨーロッパからいろいろな品物が持ち込まれているのですが、実際は中国や東南アジア地域との貿易がその主体でした。
 15世紀、中国(明)や朝鮮が厳しい貿易統制策をとっていた時代に東アジアから東南アジアの海域で各国相互の交易を独占的に行って発展したのが琉球でした。
 16世紀にこの海域に至り、琉球に代わってこの交易網に割り込んできたのがポルトガルやスペイン。遅れてオランダ、さらに後期倭寇や秀吉・家康時代の日本も参入してきました。琉球はこれらの勢力との競争に敗れて衰退します。
 17世紀に入り中国と日本に強力な政権(清と江戸幕府)が成立して倭寇が制圧され、日本では幕府の政策により日本人の海外渡航とカトリック国であるポルトガル・スペイン船の来航が禁止されて、家康時代には来航していたイギリスも日本から撤退した結果、日本との貿易では清国船とオランダだけが残りました。これがいわゆる「鎖国」。
 この南蛮貿易から鎖国下・長崎でのオランダ貿易を通じて仲介したのがヨーロッパ諸国の船であっても、日本が輸入した主な商品は中国産の生糸でした。ほかは東南アジア地域で産出する産物。基本的にはヨーロッパ本国とではなく、東アジア・東南アジア地域内の貿易だったのです。
 来航する船も遥かヨーロッパからではなく、ポルトガルの場合はマカオ、スペインはマニラ、オランダはジャカルタとの往復が主体だったろうと思います。香辛料貿易のように地球を半周するような遠隔地貿易の場合も、その全区間を運ばれるような商品もあったでしょうが(それは香辛料のように痛みにくく破損しにくいものでしょうね)、19世紀ぐらいになって相互を短期間に直航できるようになるまでは、途中に立ち寄る拠点間の交易が大きな比重を占めていたことでしょう。
 したがって、天正の遣欧少年使節もそのようなポルトガルの拠点間交易路をたどり、時には風待ち(季節待ち)をしながらローマとの間を往復しました。西アジア・東地中海のアラビア・ベネチア交易圏を避け、アフリカの喜望峰回りで、「長崎 → マカオ → マラッカ → ゴア → リスボン → マドリード → ローマ」という経路。往路で3年(1582〜85年)、復路に5年(1585〜90年)、トータルで8年の旅ですね。
 ちなみにそれから30年後に伊達政宗が派遣した支倉常長の慶長遣欧使節は、お膳立てをしたのがスペインだったので、太平洋を横断するヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)経由でローマまで往路に2年(1613〜15年)、復路は風と海流の関係でメキシコから一旦フィリピンのマニラを経由して4年(1816〜20年、スペインのセビリアからは3年)、合計7年の旅でした。