--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.1130 (2015.01.23)

Q. 祐之さんからの疑問

 中国にある「万里の長城」についての質問です。
 現在の長城は、観光資源の役割として国を挙げて整備保全されたもので、もともとの長城は、高い土盛りに近い簡素なものだったと聞いたことがあります。
 ベルリンの壁みたいに、24時間の警備でカメラや無線のある時代ならまだ意味があるかと思いますが、
秦の始皇帝の時代だと、秦の警備員が壁を崩している侵入者を発見したとしても、まわりのみんなに知らせられません。
 長城は、力の誇示と長城建設の仕事を創出する目的だったのでしょうか?

私は実物を見たことがないので、状況がよくわかりませんが……。


A. さつまオニオンさんから

 これは学校の先生に聞いたのと私の推察を含みます。
 やはり、大きいこととしては権力、技術力の誇示が含まれてると思われます。
 二つ目に、万里の長城は敵の騎馬の侵入を防ぐものだと教えられました。あの高さを馬では飛び越えることができないため、騎馬隊の進軍ができません。
 壊そうとしても、騎馬隊が通れるほどの幅を壊すのは時間がかかり、その間に迎撃や軍の体制を整えるだけの時間は確保できるのではないでしょうか。

A. ミオパパさんから

 紀元前770年ころの春秋・戦国時代の列国は外敵の侵入を防ぐために個別に国境に長城を築いていました。また現存する万里の長城の大部分は明代に作られたものだそうですから途中で中断することはあっても、都合2000年近くにわたって作り続けられたことになります。
 ということは、外敵を防ぐ効果が高かったという左証に違いないと思います。長城建設には莫大なコストと労力を必要としたでしょうから力の誇示というよりは、それに見合う効果があったと考える方が自然だと思います。また歴代の王朝の力の誇示の方法が全て長城というのも考え難いのではないでしょうか。
 万里の長城は漢族が北方の騎馬民族の侵入を防ぐために築いたものです。漢族は農耕を営み食糧を貯蔵することで安定的な生活基盤を構築しました。騎馬民族は基本的に狩猟や遊牧だから生活が安定しません。騎馬民族が飢餓に陥ったとき、どうするか、答えは漢族の食糧を奪えば当座は凌げるということです。
 騎馬民族の騎馬軍は近代兵器が発明されるまで、突進力と機動力あり、同じ兵員数なら最強でした。したがって、漢族の農家から食糧を奪うことはたやすいことだったろうと思われます。
 でも、馬は弱点があり目の前の自分より低い障害物ですら越えたがりません。巨大な壁の前で立ち往生してしまう。それを城壁の上で待ち受けて弓矢で撃退したました。その意味で長城は絶大な効果があったといえます。
 質問者の方がいわれるように騎馬民族が長城を破壊して侵入した場合のことを考えみますと、それを発見したときは狼煙などで連絡したようです。漢族の軍隊は数も多く組織化されているので、正面衝突したら騎馬民族の侵入した少数の騎馬隊に勝目はありません。
 ベルリンの壁を越える者と万里の長城から侵入する者の決定的な違いはベルリンの壁を越えた者はそのまま帰りませんが、万里の長城から侵入した者は食糧を奪った後、城壁の外に帰らなければならないということです。
 長城のすぐ近くに農家があるわけではないので城内深く侵入し、目的を遂げた後は漢族の軍隊が到着する前に必ず城壁を壊した場所まで戻り外に脱出しなければならない。これは侵入する側には大きな心理的負担です。
 こうした小規模な侵入ではなく、中国の王朝を倒すような侵略を企てた場合は逃げ帰ることは想定しませんが、騎馬民族がひとつにまとまることを恐れていた歴代の中国王朝は騎馬民族同士が争うように常に仕向けていたので、チンギス・ハーンが登場するまで、北方の騎馬民族がまとまることはありませんでした。
 そのチンギス・ハーンも長城を越えようとしたときは、多大な被害を出したようです。

A. far_West13さんから

 私も実物を見たことがないので、現代の身近なものを元に考えてみます。

(A)実際の作戦の方針から検討します。
 侵攻して来る敵軍団を止める簡単な方法は、敵集団の前方に適度に負傷者を出させること(理由は後述)です。

 手順は以下の通りです。

(1) 兵士の移動速度を鈍らせる。
(2) 動きが止まったり鈍くなった敵兵士を弓矢(現代なら火砲)で狙撃する。
   止まった的は狙い易い。的も選び易い(迷い難い)。
(3) 敵の死傷者が増加する。
(4) 敵に侵攻作戦の中止を決断させる。

 狙い易くするための(1)であり、(1)のための土塁=長城です。
 ですから初期の長城は馬術競技のバリケードや兵士の平均身長よりは高いが、それでも精々数メートルもないくらいのものだったろうと考えられます。

(B)心理作戦から検討します。
 堤防などを上ってみると分かりますが、まず上り坂の移動はゆっくりになります。また、上り切るとその先は、身を隠す物が何もない、いわゆる「丸裸」の状態になります。ハイキングなら気分上々ですが、戦闘では、これはかなり怖い。上記の(A)がリアルに想像できてしまうからです。
 長城の向こう側=敵地に行くのは心理的にキツイのです。つまり土塁=抑止力です。

(C)長城の建設方法から検討します。
 初期の長城は「ただの土塁」だったとされています。
 これは「版築」と呼ばれる、単純に盛った土を上から力任せに押し固めるだけなので、大して技術は要りません。
 ところが、これが固まって乾燥すると、カッチカチでまるでコンクリート。学校の部活動などで使う相撲の土俵を間近で見れば理解できます。鉄製の鍬(クワ)やツルハシでも切り崩すのは厳しいです。金銀銅(青銅)文明の部族が土塁を切り崩すのは相当ハードルが高いです。

(D)長城の維持から検討します。
 長城を築いて「はい、それまでよ〜」はありえないです。
 長城の内側、数十キロメートル離れた安全地帯に味方の主力(大軍団)を駐留させます。駐留というよりは駐屯(屯田兵団)に近いでしょう。
 長城に沿って、内側すぐには物見櫓(ものみやぐら)を数キロ毎に建てて、長城のはるか外側を監視します。後方の味方主力の方にも向けて数キロ毎に通信櫓を建てます。たぶんインターネットの網の目状態になります(昔の映画『天平の甍』か『敦煌』に長城守備隊の場面があったような?)。
 現代のように機械化(トラック、兵員輸送車、装甲車)されず、エア・サービス(航空支援、空挺)もない時代の陸軍では、移動速度は歩兵が基準です。いくら騎兵が!、といってもその騎兵をサポートするのは歩兵ですから、平均移動速度は徒歩の速度です。
 ですから、地平線の彼方まで監視する物見櫓に向かって、暗闇に紛れて一晩で接近するのはほぼ不可能です。
 また、物見櫓が少々攻略されても、それを囲む隣の物見櫓と相互監視しているので、バック・アップとして敵の情報を伝達します。
 地平線に敵軍が見えたとき、それはもちろん昼間なのですが、それが大軍なら土煙が見えます。直ちに、物見櫓伝えに狼煙(ノロシ)か、鏡で後方の主力に応援を要請します。
 中国西部などの乾燥帯では晴れの日が多く、接近中の敵に通信を傍受されにくい鏡に依る光通信が正解でしょう。燃費もゼロです。金属器やガラス工芸の文明が必要ですけど。

 長城を切り崩すためのゲリラ工兵を見つけたらなら、物見櫓の守備隊が敵より先に長城の頂部に上がり、みんなでお出迎えして、敵が長城に接近する前に狙撃です。
 長城の一部が大軍プラス工兵に切り崩されたら、その大軍は「丸裸」を嫌って「切り崩し点」に殺到して渋滞するはずです。そこで渋滞した切り崩しの「出口」に向けて狙い撃ちのチャンスです。
 それならば敵軍にワザと長城を切り崩させ、攻め口を限定させた上に工事で疲れさせ、侵攻をもたつかせて、一方で後方の主力は、疲労を貯めないようにゆっくり遅れ気味に駆けつけて、敵を迎え撃つのもアリです。

 真偽はともかくとして、長篠の戦で織田軍は馬防柵を配置して、武田騎馬軍団の足を止め、そこへ鉄砲を撃ちかけたという話がありますが、馬防柵は長城のプレハブ化、コスト・ダウン化と考えられます。
 理想論ではありますが、味方を徹底的に強くして、あるいは強く見せかけて(四面楚歌の作戦)、敵の「やる気」を無くさせるのがベストです。その意味でも、長城には価値があります。
「相手には長城を作るほどの国力がある」と悟れば、よほどのバカでないかぎり無駄な戦いは控えるでしょう。
 しかし、力量が均衡していると思えば、「一か八か!」仕掛けてくるヤツがいるかもしれません。

 どうしても戦争するなら、戦場では敵兵士はできることなら受傷させるくらいにして、殺さない方がよいです。
 敵兵士が死んでしまうと、その死体を援体(弾よけ)にされてしまうので、射込む矢、弾薬が余分に要りますし、カタキウチと称して敵兵士の士気が余計に上がってしまい、死体を踏み越えて突撃してきます。
 一方で負傷者が出ると救護・収容に人員が割かれてしまって、戦うどころではなくなってしまいます。
 もし救護・収容しない方針で部隊を進めると、「明日はわが身」を悟った兵士の士気が低下して、やっぱり負けます。
 現代では終戦後の傷害(傷痍)者年金、遺族年金の予算も用意しておかないととても戦争はできませんが、その単価は一般には、「傷痍者年金>遺族年金」ですから、戦場では、敵兵士はできるだけ殺さず、捕虜にもせず、本国にお持ち帰りいただくのがよいですね。

たいへん詳しい説明でした。ありがとうございました。(星田)