--- 素朴な疑問集 ---
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疑問No.1256 (2018.01.26)

Q. ショウゾウさんからの疑問

 小学生の頃からの疑問です。
 「大分」は、どうして「おおいた」と読めるのでしょうか?
 「おお」は、わかります。しかし、「分」を「いた」と読む例がほかにもあるのでしょうか?
 地名のことですから、歴史上そうなっていると言われればおしまいなのですが、せめてその「歴史上の経緯」を教えてください。

何かを「大きく分けた」のでしょうか?


A. うにうにさんから

 要約しますと……、
(1) 「おおいた」は当初「おおきだ」という地名だった。
(2) 「きだ」は「分けられたもの」を意味する古語で、この地域の地形が複雑
なので「多くに分けられている」というところから生まれた地名と考えられる。
(3) その意味から,「大分」という漢字が当てられた。
(4) 後に発音が「おおいた」と変わった。

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 詳しく述べます。

 Wikipediaの「大分県」の項には次のようにあります。これをベースに,少し補足説明します。説明の便宜上,(1) 〜(3) と番号をふりました。(2018.04.24参照)

(1) 現在の大分県の県名は、古来国府が置かれていた大分郡(おおきたのこおり)に由来し「おおいた」という読みはイ音便の一種で、「おおきた」が転訛したものである。

(2) さらに、大分郡の名の由来については『豊後国風土記』では、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と感嘆して名づけ、これが後に「大分」と書かれたとされる。

(3) しかし、大分平野は広大とは言えないため、実際には狭く入り組んだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じて「大分」になったとする説が近年の定説である。

 ただ、さらに各種の文献を調べてみると、(1) は定説、(2) もそのような言い伝えが書かれているのは事実ですが、(3) は「定説」とは言いがたいようです。

 まず,『日本書紀』『豊後国風土記』(いずれも8世紀前半)には (2) で述べた景行天皇の逸話が書かれ,そこでは景行天皇が「碩田」という地名を提唱したと書かれています。『日本書紀』のほうにはさらに「於保岐陀(おほきだ)」という読みが付けられています。
『豊後国風土記』には読みはありませんが,すでに郡名は「大分郡」となっており、景行天皇の名付けた「碩田」はいま(7世紀初め)の「大分」のことをいうとしています。その後10世紀前半に編まれた『和名類聚抄』という一種の百科事典では、「大分」の読みとして「於保伊多」(おほいた)と書かれていますので,この間に (3) でいうような発音の変化があったことが分かります。

 また、多くの研究者は景行天皇の「鶴の一言」で地名が生まれたという説を「後付け」とし、まず「おほきだ」(今の発音ではおおきだ)という地名がその地域にあったとしています。(実際,第12代天皇である景行天皇は,日本武尊の父で,日本書紀によると137歳で亡くなったことになっています。どこまで史実だかは分かりません。)

 問題は、その「おほきだ」の由来でして、Wikiは(2) 説の出典として、大分県と同県立図書館のサイトを挙げています。
 このうち、県のサイト(
http://www.pref.oita.jp/soshiki/10400/symbol04.html )は、県が作成した「O-Book」という冊子を引用する形で「むしろ地形は狭く複雑であり、「多き田」→「大分」との見解が最近の定説です。」と言い切っています。
 ところが、県立図書館のサイト(
https://www.oita-library.jp/?page_id=452 )では、冒頭で県のサイトの文章を引用していますが、さらにその続きを読むと、諸説を挙げながら、「多き田」を否定しています。Wikiのこの項目を書いた人は最後まで読まなかったのでしょうか。
 そこでは、「現在比較的有力」な説として,「おほきだ」は「おほ+きだ」と区切り、「きだ」は切れ目や段の意味で、地形が錯綜していてたくさんにきざみ分けられているところから来ているのではないか、という説をとっています。

「きだ」という語は、広辞苑や古語辞典にも載っており、「切り分けたものを数える単位」(1きだ、2きだと数える)や「布の長さの単位(1きだ=3.939m)」、「田畑の面積の単位(1きだ=991.8平方m)」として使われましたが、さらにさかのぼると、本来は「分かれ目」「切れ目」といった意味であり、それが単位化して使われるようになったと考えられます。また、階段の意味の「きざ」(「きざはし」の「きざ」です)や「刻み」などと同じ語源という説もあります。「きだ」には今日では「段」という漢字を当てて「1段」と書きますが,かつては「分」という字を当てた例もあります(そもそもの意味が「わけられたもの」ですから)。

 以上より、現在の有力説をまとめると、次のようになります。

1. 地形が錯綜している地域なので、多くの斜面や平地など「たくさんにわかれているところ」=「おおきだ」という地名が生まれた。
2. 「たくさんにわかれている」というところから「大分」という漢字が当てられた。
3. 発音が「おおいた」に変わり、現在に至る。

読み応えのあるご説明、ありがとうございます。

A. 岸ぞ〜さんから

「大分」は2文字揃って初めて「おおいた」と読みます。「大(おお)」+「分(いた)」と分析することはできません。「明日(あす)」を「明(あ)」+「日(す)」、「今日(きょう←けふ)」を「今(け)」+「日(ふ)」と分析することができないのと同じです(ただし「けふ」は語源論的には「け(this)」+「ふ(day)」と分析できるできるのだそうです)。「分」だけ取り出して「いた」と読むことはありません。
 平安時代中期に成立した百科事典である『和名類聚抄』には、当時の国内全国の各国郡が列挙されているコーナーがあり、豊後国の「大分郡」に「於保伊多」と(万葉)仮名がふられていて、10世紀前半には既に「おほいた」と読まれていたことがわかります。
 奈良時代初期に編纂された『豊後国風土記』の「大分郡」の項には、その郡名の由来として、かつて景行天皇がこの地に来た時に「碩田」と名づけたという記事があります(したがって、8世紀前半には由来はどうであれ、既に「大分郡」と表記されていたことがわかります)。
 そこで『風土記』と同じ頃に成立した『日本書紀』の景行天皇の記事を読むと、ほぼ同じことが書かれていて(なので、『豊後国風土記』のこの部分は『日本書紀』とセットになって“創作”されたものと考えられています)、本文中に挿入された割注に「碩田」の読みとして「於保岐陀」と(万葉)仮名がふられています。おそらくは「おほきた」と読むのでしょう。元々は「おほきた」という地名であって、それが平安時代以降に訛って(「多き」を「多い」と発音するようになった音便により)「おおいた」と読むようになったと考えられています。「碩」は「大きい」という意味の漢字なので、「おおきた」は「おほ」+「きた(いた)」ではなく、「おほき」+「た」に分析されるのでしょう。
 この「碩田」が何で「大分」と表記されるようになったのかはわかりませんが、『日本書紀』にある振り仮名の「於保岐陀」の「岐」が気にはなりますね。

ミオパパさん、ふくろうさん からもご回答をいただきました。ありがとうございました。