・ 第五十四段の一 ・ じゃあ、「弥生」は?
「ねぇねぇ、『縄文土器』っていうのは、土器の表面に縄の模様があるからそう呼ばれているのよね?」
由希子に突然尋ねられた。
「ま、一応そういうことになっているけど……、それがどうかした?」
「じゃあ、『弥生土器』っていうのはどういうこと? 何がどう『弥生』なの?」
「なるほど、いわれてみればそうだ。中学校でもそこまでは習ったことがないぞ」
「単に覚えてないだけかもよ」
「あとで調べてみるとして、まずは予想を立ててみようよ」
(1) 弥生、つまり最初に発見されたのが3月だった。
(2) 発見者の名前が弥生さんだった。多分、女性だな。
(3) 実は、表面の模様が「弥生」と呼ばれている。
「ま、こんなところだろう。どれだと思う?」
「この中に答があるの?」
「そんなことは分からない」
「1番かしら」
「じゃあ、あとで調べてみるよ」
――すこしあと――
「だめだ。全然違ってたよ」
「1番じゃなかったの」
「それどころか、予想は全部外れていたよ。弥生というのは土器が発見された場所の名前だったんだ」
「地名だったの! 全然知らなかった」
「東京本郷の弥生町に向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)ってのがあってね、ここで
1884年に採集された土器がもとになって『弥生式土器』と名前がつけられたそうだよ」
「そういえば、私たちが中学生だったころは、『縄文式土器』『弥生式土器』というふうに、『式』を付けて教えてもらったわよね」
「うん、そうだった」
「でも、今の教科書には『縄文土器』『弥生土器』って載ってるわよ」
「それはね、土器を細かく類別するときには加曾利B式、遠賀(おんが)川式というふうに『式』をつけて、総称としては『式』を抜いて表現するというこ
とらしいよ。僕も知らなかったけど」
「そうだったの」
「もうすこし詳しく説明しようか。弥生土器が初めて発見されたのは、1884年3月2日のこと。やっぱり、弥生(3月)に見つかってるんだよ」
「『ダブル弥生』ね」
「発見したのは、東京大学の学生、有坂銀蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人。彼らが向ヶ丘貝塚を調査しているとき、有坂さんが貝塚の表面に壺の口縁が出
ているのを発見したそうだ。さっそく壺を発掘してみると、どうも今までの縄文土器とは形式が違う。これがあとで『弥生式土器』と呼ばれる土器だったということだよ。でも、実際にこの『弥生式土器』という名前が学会に登場するのは、かなりあとのことになって、1896年のことなんだ」
「ふ〜ん」
「もう一つ面白い話がある」
「なになに?」
「当然、これだけの発見だから、この地には何らかの碑が建てられていると予想できるよね。実際その通りで、文京区弥生の東京大学のキャンパスの裏手に
発掘の碑が建っているんだ。でも、碑文がなんだかおかしいんだよ」
「なんて書いてあるの?」
「それがね、『弥生式土器発掘ゆかりの地』。ね、おかしいだろ」
「どこが?」
「なんだか回りくどい表現だろ、『ゆかりの地』って。ずばり、『弥生式土器発掘の地』と書けばいいのに……」
「そういわれればそうね」
「だから、何かわけがあるということなんだけど、三択だ。
(1) 発掘の地に東京大学の建物ができてしまったので、近くに碑を作った。
(2) 発見者である有坂が弥生式土器「第1号」をこの場所に埋めてしまった。
(3) 土器を発見した場所が分からなくなって、「このあたりだろう」という場
所に碑を建てた。
さて、どれでしょう?」
「3番かしら?」
「おお、今度は当たったね。発掘が行われたあたりで地形改変が行われて、有坂さんは発掘した場所が分からなくなってしまったんだよ」
「きちんと印を付けておけばよかったのにね」
「それが付けてなかったんだ」
「でも、だいたい覚えているでしょう」
「ところがどっこい、大発見で興奮していたのか、発掘場所がわからなくなっちゃんたんだ」
「あらら〜」
「1975年になってね、東京大学構内浅野地区東端の崖際で弥生時代後期の貝塚が発掘されて、
『ここが昔、向ヶ丘貝塚と呼ばれていたところの一部だろう。すくなくとも、そこに近い場所だろう』
ということで碑が建てられたんだって。1976年には、『弥生二丁目遺跡』として国の史跡にも指定されているよ」
「でも、正確にそこだというわけじゃないのね」
「そういうこと。だから、現在、『弥生式土器発掘の地』の候補地が、文京区弥生1丁目から3丁目にかけて5ヶ所ほどあるそうだよ」
「それは大変ね」
【メモ】
◆「候補地」の中でいちばん有力とされているのが、紹介した「弥生二丁目遺跡」。
(参考→ http://www.city.bunkyo.lg.jp/_4581.html )
◆環濠集落跡として有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の遺跡。
「城郭」としての性格もあるとして、2006年には「日本100名城」に選定されている。
◆同じく佐賀県の鳥栖市には、「柚比本村遺跡」という弥生時代の遺跡がある。これで、「ゆびほんむらいせき」と読む。
◆「大足」という道具がある。弥生時代、当時使われていた青草などの肥料を、田に踏み込むときの道具だ。
◆やはり、中学のころ、「弥生土器はろくろを使用して作られた」と習った記憶があるのだが、現在ではろくろの使用については否定されている。
◆弥生土器は、土器の様式から前期、中期、後期の3期に大別されている。しかしこの区分法は、地方や研究者によって一致していないので注意が必要だ。
一般的に、前期の弥生土器は中部地方以西に広がり、中期以降東日本にも広まっていったとされている。
◆縄文土器、弥生土器、土師器は、ともに硬質の赤焼き土器だ。教科書などを読んでいると、縄文土器と弥生土器が明確に区別されているようだが、実際には簡単に区別できるものではないそうだ。
◆日本にはおよそ3000ヶ所の貝塚のうち、555ヶ所が千葉県に集中しているそうだ。話の中に登場した加曾利も千葉市桜木町に位置し、ここには日本国内最大級の貝塚や縄文時代中期から晩期にかけての集落遺跡がある。
「加曾利B式」のBとは、B地点のこと。1924年の調査で、南の貝塚のB地点と北の貝塚のE地点の土器に形式上の違いが発見され、これを標識とする分類がされるようになったのだ。
また、同じく話の中に登場した遠賀川とは、福岡県の遠賀川のこと。遠賀川の川床の遺跡から弥生前期の土器が発掘され、この土器に基づいて「遠賀川式土器」と総称されている。
◆私たちが今使っている道具のうち、たとえばパソコンが将来発掘されて、そのあまりのお粗末さに、「平成式土器」と呼ばれたりして……。