★雑木話★
ぞうきばなし

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 ● 第六十八段 ●  それは、振袖から始まった

 火事と喧嘩は江戸の華。両方ともあまり好ましくない事態だが、威勢のよさが感じられる。これが、江戸の気質なのだろう。
 1657年(明暦3年)1月18日、午後2時ごろ、江戸の本郷丸山町にある本妙寺から火事が起こった。19日の朝までに、日本橋、深川、本所方面まで延焼した。
 同じ19日の午前10時頃、今度は、小石川鷹匠町伝通院前から出火。さらにその夜、麹町から出火。一連の火事で、江戸城も類焼。江戸市中の6割が灰になった。焼失した町は800、死者は10万人以上といわれる。
 この大火を、当時の年号をとって、「明暦の大火」という。「振袖火事」という別名も持っているのだが、どうして「振袖」なのか。今回はそのお話。

 浅草諏訪町の大増屋十右衛門には、おきくという娘がいた。この娘、上野の花見の途中で、ハンサムボーイに一目惚れ。毎日毎日彼のことばかり考えて、ついには病気になってしまった。恋患いというやつだ。それがもとで、おきくは死んでしまった。これが、1655年(明暦元年)の1月16日。おきくは、本妙寺に葬られる。
 そのとき棺の上にかけてあったのが、紫ちりめんの振袖。おきくが気に入っていた振袖だ。それがどうしたわけか、古着屋に流れた。そしてこの振袖を次に手にしたのが、本郷元町の鞄屋吉兵衛の娘、お花。残念ながら、お花も病死する。明暦2年の1月16日のことだった。
 さらに、この振袖は、中町の質屋伊勢屋五兵衛の娘に渡り、この娘も明暦3年の同月同日に病死する。死んだ3人の娘は、みな16歳だった。
 命日が同じだったので、図らずも、3家族が明暦3年の1月16日に本名寺に集まることになる。この奇妙な因縁に驚いた3家族は、施餓鬼(せがき)をしたうえで、振袖を焼き捨てることにした。しかし、振袖は火がついたまま舞い上がり、その火が本堂に燃え移った。この火がやがて、江戸中に広がっていった。
 もちろん、噂に過ぎない。しかし、火のない所に煙は立たない。


【メモ】

◆このときの将軍は、徳川家綱。江戸幕府の4代目の将軍だ。

◆伝馬町には牢獄があった。ここにもやはり猛火は襲ってくる。牢奉行の石出帯刀(いしでたてわき)は、囚人を見殺しにすることができず、
「火が収まったら、下谷の善慶寺に集まるんだぞ!」
 と言って、数百人の囚人を解放した。
 ところが、これを囚人の脱走だと勘違いした浅草門の門番が、惣門を閉じてしまった。このため、避難しようとする一般の人々が逃げ場を失い、浅草橋の前で圧死したり、川を渡り切れず溺死するという悲しい結果になった。約23000人が死亡した。

◆明暦の大火での死傷者を供養するために、回向院(えこういん)が建設された。総武線の両国駅付近にある。

◆この大火をきっかけに、江戸幕府は消防組織を設立した。これが、定火消(じょうびけし)。一方、吉宗が組織させたのは、町火消し。これは、町奉行の監督下にある消防組織で、江戸市街の防火を担当していた。

◆幕府は、江戸市街の再建にも力を入れた。火事の延焼を防ぐために、あちらこちらに空き地を設けた。これを、火除地(ひよけち)という。また、広小路と呼ばれる広い道も設けている。上野広小路や名古屋市の広小路通などに、今も名前が残っている。

◆日本でいちばん最初に交通信号がつけられたのが、上野の広小路。

◆テレビの時代劇で、町角に天水桶(てんすいおけ)を見かける。この桶には、火事などに備えて雨水をためてある。

◆■ 施餓鬼(せがき) ■
悪道に落ちて苦しんでいる亡者(餓鬼)に飲食物を施すという法会。現在では、一般に、お盆に浄土真宗以外の宗派で、無縁仏や先祖の供養のために行われる。

◆怪談『番町皿屋敷』の中で、家宝の皿を割ってしまったのも、お菊さんだった。

◆俗に人間が患う病気の数は四百四病(しひゃくしびょう)といわれている。だが、「四百四病の外(ほか)」といわれる病気もある。これが、恋患い。現代でも、効果的な治療薬は、発見されていない。

◆■ フリソデヤナギ(振袖柳) ■
ヤナギ科の落葉低木。高さ約2m。ネコヤナギとヤマネコヤナギの雑種。早春に太い花穂を出す。生け花によく使われる。

◆例年11月の酉(とり)の日に、各地の鷲(おおとり)神社の祭礼で、市が開かれる。これが、「酉の市」。客商売の開運の神として信仰され、市では縁起物の熊手などが売られる。最初の酉の市から、順に一の酉、二の酉、三の酉と呼ばれる。三の酉まである年は、火事が多いといわれている。

◆There is no smoke without fire.


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