● 第七十一段 ● ひよこ組のゆりちゃん
息子の脩(なお)は、1歳の頃から保育園に通っていた。当時の彼の所属は、ひよこ組。メンバーは、3人。脩、ゆりちゃん、たっくんだ。1歳になったばかりの脩と比べると、他の2人は本当にしっかりしている。この年齢での数ヶ月は、発達の上では、かなりの差として現れてくるようだ。
ある日、夕方に迎えに行った。教室には、ゆりちゃんと脩がいた。たっくんは、既に帰宅していたのか、教室にはいなかった。帰る用意をしていたら、担任の保育士さん(女性)が、声をかけてきた。
「この間、進級写真を撮ったんです。」
「へぇ。そうですか。」
と、脩を抱いたまま、写真をのぞき込んだ。
「脩は、どこかな〜?」
すると、そばにいたゆりちゃんが小さな指で、写真の脩を押さえた。
「すごいね、ゆりちゃん。わかってるんだ。じゃあ、たっくんは?」
ゆりちゃんは、ニコニコして、今度は写真のたっくんを指す。
「すごい、すごい。じゃあ、ゆりちゃんはど〜こだ?」
予想外のことが、起こった。なんとゆりちゃんの人差し指は、写真ではなく、ゆりちゃん自身の鼻を指していた。
保育士さんと一緒に、笑ってしまった。しかし、笑うと同時に、納得もした。ゆりちゃんは、まだ、自分の顔が分かっていないのだ。いつも一緒に遊んでいる脩やたっくんは、写真の上でも、確認できるのだが、自分となるとそれができないのだ。これは、新鮮な驚きだった。
赤ちゃんの発達に関する本を読んでいると、よく似たことが書いてあった。赤ちゃんが鏡に映った自分の姿を自分だと認識するのは、ふつう生まれて1年9ヶ月を過ぎる頃らしい。だから、ゆりちゃんは、もう少しすれば、自分のこともわかってくるはずだ。
あれ、ということは、脩はいつも自分が映っている写真を見て声を出して喜んでいるけど、あれって、やっぱり、分かってなかったんだ。少し悲しいけど……。
ここで、問題。鏡に赤ちゃんの姿を写す。赤ちゃんがその姿を自分として認識しているかどうかを、どうやって確認するか。
まずは、息子で実験してみた。彼の前に鏡を置く。鏡に映っている像を見て、ニコニコする。やがて、鏡を触りに行こうとする。最後には、鏡にキスする。これじゃあ、何にも分からない。多分、自分の認識はないな。
今度は、鏡で反射した像が彼に見えるような位置に、お気に入りの人形を置く。やはり、ニコニコの反応がある。反応後すぐ、実物の方に顔を向ける。そして、再び鏡を見る。同じ物が2つあることに、困惑しているのだろうか。分からない。
実は、大学時代に、育児の授業で答えを教えてもらっていた。赤ちゃんが寝ている間に、おでこや鼻の頭などに、マークを付けておくというもの。そして、目が覚めたら、赤ちゃんに鏡を見せる。
「あれ? 自分のおでこに何かヘンなものが書かれてあるぞ!」
と思えば、自分のおでこに手をやるはずである。こんなにうまくいくのかどうか。早くやってみたい。年頃の赤ちゃんがお宅にいるという方には、実験をお薦めする。
ところで、ゆりちゃんは、写真のゆりちゃんを誰だと思っているのだろう? どうやって、確認するか?
【メモ】
◆鏡に全身を映して見るためには、少なくとも身長の半分の長さの鏡が必要だ。
◆正面と左右に鏡があるのが、「三面鏡」。「三稜鏡」といえば、プリズムのこと。光の屈折や分散などを起こさせる。
◆三角柱の筒をのぞいて、回しながら美しい模様を見るおもちゃは、「万華鏡」。英語では、kaleidoscope。スコットランドの物理学者、ブルースターが発明した。
◆岩崎宏美は、『万華鏡』という歌を歌っていた。
◆夫婦は一度離縁すると、復縁できないという意味のことわざ、「破鏡(はきょう)再び照らさず」。
◆■ 弓削道鏡(ゆげのどうきょう) ■
?〜772。孝謙天皇(女性)の病気を癒(いや)し、熱い信任を得て台頭する。764年、彼を宮廷から追い出そうと、藤原仲麻呂が乱を起こすが、近江で敗死する。765年、太上大臣禅師となり全盛期を迎え、仏教政治を行なう。宇佐八幡宮の神託と称して、皇位を望んだが、和気清麻呂が偽の神託であることを確認し阻止する。770年、下野(しもつけ)薬師寺に左遷される。
◆伊勢神宮内宮(ないくう)の御神体は、「八咫鏡(やたのかがみ)」。「咫」は、古代の長さの単位。天照大神(アマテラスオオミカミ)が、天の岩戸に篭(こも)ったとき、石凝姥命(いしどりこめのみこと)が作ったという。天孫降臨の際に、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けたとされる。皇位伝承のしるしである「三種の神器」の一つ。あとの2つは、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙剣(くさなぎのつるぎ)ともいう)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。
◆ベルサイユ宮殿の戦争の間と平和の間にはさまれた廊下が、「鏡の間」。長さ73mの壁面に400枚の鏡がはめ込まれている。第1次世界大戦の講和条約が調印された場所が、ここ。
◆能舞台と楽屋の中間にも、「鏡の間」がある。もちろん、大きな鏡がある。演者や囃方(はやしかた)が、精神統一をおこなったり、簡単な調整をするための部屋だ。
◆路上に見られる反射鏡のついた鋲(びょう)のことを、「キャッツ・アイ」という。
◆鏡町があるのは、熊本県の八代平野の北部。鏡村があるのは、高知県中部。
◆アニメ『ひみつのアッコちゃん』の主人公、アッコちゃんの苗字は、「鏡」。「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン」で変身し、「ラミパスラミパスルルルルル」で元の姿に戻る。「ラミパス……」は、鏡の国の言葉で、「さようなら」を意味するそうだ。
◆「ラミパス」を逆から読むと、「スパミラ」。「スーパーミラー」となる。これは、稲田君に教えてもらったこと。調子に乗って、「テクマクマヤコン」を逆から読んでみたが、何も分からなかった。