● 第七十六段 ● 針は危ないから、つまようじ
杉野君が、画用紙を持って我が家を訪れた。
「ちょっとした実験に協力してくれませんか?」
「いいけど、どんなこと?」
「この間、稲田さんと時計の針のことについて話してたでしょ。あれを聞いてやってみたくなったんです」
「だから、どんなこと?」
「針あります?」
「針? あるよ」
「たくさんあります?」
「何本くらい?」
「10本はほしいですね。できれば同じ長さのものが」
「それはたぶんないだろうな」
「だったら、つまようじでいいです」つまようじを10本用意した。彼は、床に画用紙をセロテープで貼りつけていた。
「何が始まるんだ?」
「この画用紙には、平行線が何本も引かれています。間隔は10cmです」
「だから?」
「この画用紙の上につまようじをまいてもらいます。10本のうち、何本が平行線と交わるか数えてください」
「何かの確率の実験だね」
「そうです。『ビュフォンの針』と呼ばれるものです。10本ずつ10回投げれば、100本投げたことになりますから、これを5セットしてほしいのですが……」
「何だかめんどうだけど、面白そうだね。やってみよう」
「その前に、ものさしと電卓を貸してくれませんか?」
「いいけど、何するの?」
「フランスの数学者ビュフォンによれば、これから投げる500本のうち、何本が平行線と交わるか計算で求められるというのです」
「ほぉ、どんな計算?」
「それは今はいえませんから、この紙に予想本数を書いておきます」
「あとで計算方法を教えろよ。じゃあ、やってみよう」| 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 |合計
―――+―――――――――――――――+―――
1回目| 6 2 4 4 2 3 4 4 7 5 | 41
―――+―――――――――――――――+―――
2回目| 3 6 2 6 3 7 6 7 3 5 | 48
―――+―――――――――――――――+―――
3回目| 5 6 5 2 5 3 5 3 3 3 | 43
―――+―――――――――――――――+―――
4回目| 4 4 1 4 4 3 3 4 3 3 | 34
―――+―――――――――――――――+―――
5回目| 6 5 2 4 4 6 2 4 3 4 | 40
―――+―――――――――――――――+―――
合計 | 206「206本か。半分くらいは線と交わると思ったんだけど、それほどでもなかったね。で、その紙を見せてよ」
「では、発表します。予想していた本数は、210本でした」
「おお、すごい。たったの2%くらいの狂いしかないじゃないか!」
「半分も交わったらどうしようかと思ってたのですが、かなり近い数字でしたね。よかったです」
【メモ】
◆針の長さが長いほど、平行線の間隔が狭いほど、針と平行線は交差しやすい。また、針と平行線がつくる角度が、交差の有無に関係することもすぐにわかる。たとえ線の近くに針が落ちても、針が線に平行に近ければ、線には交わりにくい。針の回転が関係するわけだ。だから、この『ビュフォンの針』の公式には、πも登場するだろうということは予測できる。
◆等間隔dの平行線でおおわれている平面上に、長さLの針を勝手に落とすとき、針が平行線と交わる確率は、
2L
――――
πd
となる。この式は、実験から求められたのではなく、理論的に求めることができる。その経緯は、今回は省略。
さて、本文で使ったつまようじの長さは、L=6.6cm だったから、確率は、
2×6.6
―――――=0.420……
3.14×10
だから、交わるだろうと予想できる本数は、
500×0.420=210(本)
◆■ ビュフォン ■
1707〜1788。フランスの博物学者、啓蒙思想家。初め法律を学んだが、次第に数学、物理額、農学に興味を持つ。1749年から多くの人の協力を得て、『博物誌』の刊行を始めている。これは彼の死後に刊行されたものまで含めると44巻にもなる膨大なものだ。この中で彼は、「類人猿は、人間の未発達の状態あるいは退化したもの」ということを述べている。これは、ある意味では、生物の進化とも受け取れる内容であり、この点で彼は進化論の先駆者とされることがある。また、地球が誕生したのは聖書の記述よりはるかに昔だったとも主張し、神学者の非難を受け、この考えを取り消している。
◆つまようじは、漢字で「爪楊枝」と書く。「つま」は、爪だったんだ。
◆日本のつまようじの90%以上を生産しているのは、大阪府の河内長野市。
◆クロモジは、クスノキ科の落葉低木。枝には香りがあり、高級つまようじの材料になる。だから、クロモジ製のつまようじを「黒文字」と呼ぶことがある。
◆「楊枝を違える」とは、ささいな間違いをすること。「重箱の隅を楊枝で穿(ほじく)る」とは、細かいこと、つまらないことまでうるさくいうこと。