● 第九十九段 ● 試験管の印
「やめてくれ〜! その音をやめてくれ」
「音? 何の音?」
「そのおたまの音だよ」
「おたま?」
「そのおたま、金属だろ」
「ああ、そうか。あなた、だめだったわね。このボウルも金属だものね……」
そうなのだ。金属と金属とをこすり合わせる音がだめなのだ。由希子は、金属のおたまで金属のボウルに入ったポテトサラダを取ろうとしていたのだ。そのときの音が……。あ〜、思い出すだけでも、本当に鳥肌が立つ。あの音が脳のどこかに働きかけて、体をゾクゾクさせる。
「本当に敏感なのね。ほかのことは鈍感なのに……」
「ほっといてくれ」
「ガラスを爪で引っ掻くのもだめ?」
「あの『キーッ』だろ、もちろんだめ」
「あらら」
「引っ掻くような振りをされるだけだめだ。引っ掻くような振りをされて鳥肌を立てている人の話を聞いただけでもだめだ」
「ずいぶんね」
「キーッ」に関しては、こんな思い出がある。
高校のときの化学の実験で、どうしてもガラスに印を入れなければならない場面があった。ガラスといっても、それは試験管。試験管といえども、やはりガラスでできている。印を入れるのには、かなりの抵抗があった。
「よ〜し。じゃあ、液面の高さのところに、印をいれなさい」
――印を入れる? 試験管に? 鉛筆で? おいおい、勘弁してくれよ。俺、苦手なんだよな〜。でも、まあ、仕方ないか……。あれ、「キーッ」の音が鳴らないぞ? よかった。あれ、でも、印もついてないや。じゃあ、もう一度やってみよう。……やっぱり、印がつかないや。おかしいな〜。
「先生、書けません」
「何が?」
「試験管に印が書けません」
「毎年必ずいるなぁ、こんな奴が。お前、鉛筆で書いたんだろ」
「そうですが……」
「それじゃ書けるわけないよ。だから、赤鉛筆を持って来いと言ったじゃないか」
「赤ペンならありますが……」
「赤ペン? だめだめ、赤鉛筆じゃないと」
となりで実験を続けている友人は、ちゃんと赤鉛筆を持って来ていて、試験管に印をつけていた。
「でも、どうして赤鉛筆じゃないとだめなんだろ?」
と考えながら、借りた赤鉛筆で試験管に印を入れた。
十数年来の不思議を不思議のままにしておいてはいけないと思って、稲田君に話してみた。
「――ということなんだ。稲田君」
「鉛筆じゃガラスには書けないよ。すりガラスなら書けるけど……」
「あれ? すりガラスには書けるの?」
「知らなかった?」
「知らないよ、そんなの。ガラスの音が恐怖で、そんなこともやろうと思ったこともないよ」
「よほど、怖いんだね」
「きっとわかってもらってないと思うけど、そうなんだ。でも、赤鉛筆なら書けて、ふつうの鉛筆では書けないって、これはどういうこと?」
「そりゃ、両者の間に何か違いがあるんだよ」
「赤と黒って違い?」
「そんなことじゃない。赤鉛筆の『赤』にこだわる必要はないよ。色鉛筆とふつうの鉛筆の違いだよ」
「色鉛筆なら何色でもいいの?」
「多分そうだ。」
「で、色鉛筆ならガラスに書けるという種明かしは?」
「色鉛筆の芯を作っている材料に秘密があるんだ」
「その材料とは?」
「芯はね、顔料、書き味をよくするためのタルク、すべりをよくするための2種類のろう、材料を固めるためののりからできているんだ。この材料の中のろうが、キーポイント。ろうが、透明ガラスなどのツルツルした物にこびりつくから、字を書くことができるんだ」
「じゃあ、ふつうの鉛筆は?」
「うん。ふつうの鉛筆の芯は、黒鉛と粘土を合わせて焼いて固めたものなんだ。このタイプだと、表面がツルツルしているものには弱い。黒鉛がくっつく場所がないからだ」
「そうか、すりガラスだと表面に凸凹があるから、書けるんだね」
「その通り。すりガラスの窪んだ部分に黒鉛と粘土が入り込み、字を書くことができるんだ」
「紙は?」
「紙はね、ツルツルとした感触があるだろ。でもね、顕微鏡で観察すると表面がザラザラしているのがわかるよ。木の繊維でできているのだから、当然のことだ。また、紙自体が黒鉛を受けとめやすい材質なので、鉛筆と紙は最高の相性だといえるんだ」
「ほう……」
「で、試験管に印を入れるというその実験は、何の実験だったの?」
「それが全然思い出せないんだ。ただ一つ覚えていることは、鉛筆と色鉛筆が違うってことだけ……」
「しっかりしろよ!」
「しっかりしたいから、鉛筆について、もう一つ質問していいかい?」
「いいよ」
「ほら、ふつうの鉛筆は六角形だろ。なのに、どうして、色鉛筆は丸いの? 昔からの疑問だったんだ」
「六角形のメリットは、何だと思う?」
「円形よりも転がりにくい」
「いいねえ。でも、もちろん、それだけではない」
「ほかに何があるの?」
「多くの人は鉛筆を親指・人差し指・中指で持つだろ。だから、力学的に考えて、3の倍数の面を持っているのがありがたいんだ」
「3、6、9、12……、ってことだね」
「でも、ま、常識的に考えて、六角形に落ち着いたということだ。出荷数はすくないけど、児童用のかきかた鉛筆には、三角形のものも存在するよ」
「じゃあ、できれば、色鉛筆も六角形にすべきだね」
「それがね、色鉛筆にはいろいろ問題があったんだ」
「どんな?」
「ほら、色鉛筆ってよく折れるだろ」
「うん、折れる、折れる。削っても削っても折れているということだってあるよ」
「色鉛筆ってのは、芯が柔らかいんだよ。そこで、芯に均等に力がかかるようにと、円形になっているそうなんだ」
「ああ、そういうわけか」
「でも、最近では、色鉛筆の芯を作る技術も進歩して、円形にこだわる必要もなくなってきているらしいよ」
「だったら、どうして円形のままなの?」
「それはね、我々消費者側に理由があるんだ。『色鉛筆は円形でなければならない』と我々が思いこんでいるんだ。実際に円形の方が売れ行きがいいらしいよ」
「でも、ころころ転がって、折れやすいと思うけど……。でも、そういう思いこみってあるのかもしれないね」
まあ、形については、納得できたような……。う〜ん、でも、高校時代のあの実験は一体何の実験だったのだろう? 鉛筆と色鉛筆が違うってことは、わかったのだけど……。【メモ】
◆そういえば、「キー」の音は、透明ガラスでは聞いたことがない。
◆やったことはないでしょうが、色鉛筆の芯にマッチの火を近付けると炎がつく。これは、芯にろうが含まれているため。
◆色鉛筆は12色入り、24色入りというように、セットで売られていることが多い。中を開けてみると、必ずといっていいほど、すでに削られている。なぜか?
バラ売りのものは、こうはいかない。最初に使うときは自分で削る必要がある。また、1ダース入りの黒い鉛筆も、削られることなく売られている。
色鉛筆が最初から削られているのは、使い勝手を考えてのこと。1ダース入りの黒い鉛筆を買っても、12本を一度に使うことは考えられないが、色鉛筆は一度にたくさんの色を使うことになる。購入したての色鉛筆が削られていなかったら、使用者はたくさんの本数を削らなければならない。今から描こうと思っているときに、そんな面倒なことはやってられない――ということで、あらかじめ削ってあるのだ。
◆ゴボウを、鉛筆を削るように薄く切り刻む方法を「ささがき」という。
◆久能山東照宮にある徳川家康の硯(すずり)箱の中には、日本最古の物とされる鉛筆が保存されていた。
◆1564年にイギリスで良質の黒鉛が発見され、これを棒状に切断して糸で巻いたり、木にはさんで使用するようになった。かなりの貴重品であった。
◆17世紀のフランスでは、鉛筆の製造に必要な黒煙をイギリスからの輸入に頼っていた。そんなとき、フランス革命の混乱で、輸入が途絶えてしまった。そこで、
「我が国独自の鉛筆の製法を研究せよ」
とおっしゃったのが、かのナポレオン。その命に応じたのがコンテ(1755〜1805)というお方。彼は、1795年、粘土と黒鉛を練り、芯の形にして乾燥、高温で焼き上げるという製法を発明する。現在の鉛筆のように、丸い芯を木で包んだのもコンテが最初だ。
◆デッサン用のクレヨンの一種に「コンテ」があるが、これを発明したのも、コンテ。というより、コンテさんが発明したから「コンテ」。
また、彼は、1797年に、それまであった気圧計とは異なるタイプの「ダイヤフラム型気圧計」を初めて考案している。多才な人物なのだ。
◆鉛筆やコンテなどを用いて、主として人物、動物などの動く対象を短時間に描く写生のことを、フランス語で「クロッキー(croquis)」という。
◆テストでわからない問題にぶつかったとき、鉛筆を転がして出た面で答えを決めたことがある。これも、円形の色鉛筆ではできまい。
◆表面に溝を切りこんで装飾としたガラスを「カットグラス」という。日本では、江戸末期に鹿児島で作られていた「切子ガラス」が有名。
◆クリスタルガラスは、カットグラスとして、美術工芸品や高級食器、建築ではガラスブロックとして使われる。
◆クリスタルガラスを作るときには、透明度を上げるために鉛が混ぜられている。鉛を入れると透明度が上がるなんて、不思議だなぁ。
◆ガラス工芸について語るなら、エミール・ガレの名前くらいは知っておこう。
■ エミール・ガレ ■
1846〜1904、フランスの硝子工芸家で、アール・ヌーボーの代表者の一人。花瓶に花、昆虫などの模様をあしらう手法が人気。1901年、ナンシー派を旗揚げしたことでも知られる。高級装飾家具も手がけている。
◆多くの古墳から出土されるガラス製の丸玉の一種に「蜻蛉玉(とんぼだま)」がある。色ガラスの丸い玉の表面に、違った色のガラスを象嵌(ぞうがん)したもの。
◆陶磁器に使うガラス質の粉のこと。「釉」と書いて「うわぐすり」と読む。
◆金属の素地に、透明または不透明のガラス質の色釉(しきゆう)を焼き付け、さまざまな模様を出した工芸品を「七宝焼き」という。
◆経論に書かれている「七宝」には、いろいろな説があるが、代表的なものでは、金・銀・瑠璃・玻璃(はり、水晶)・しゃこ(シャコガイの貝殻)・赤珠(珊瑚)・瑪瑙(めのう)。
◆「ギヤマン」といえば、もともとはダイヤモンドを意味するオランダ語がなまった言葉だ。後にガラス細工を作るときにダイヤモンドを用いたことから、ガラスそのものをさすようになった。
◆冬の暖かい部屋などで、窓ガラスの内側に水滴がつく現象を「結露」という。
◆高田みづえのデビュー曲は、『硝子坂』。Kinki Kidsのデビュー曲は、『硝子の少年』◆美内すずえの大長編まんが『ガラスの仮面』は、「花とゆめ」に連載されていた。あの話は、もう終わったのかなぁ。よく知らない。
◆なぞなぞ。飛行機と同じスピードで飛んでいるカラスって、どんなカラス?
これは、窓ガラス。
◆高校のときの化学の先生は、実験のときにはいつも白衣を着ていた。それは当たり前のことで、珍しいことでもなんでもないのだが、珍しいのはその白衣の胸ポケット。ミシンンの縫い目があるのだ。
「僕の白衣の胸ポケットは、こんなふうに、3分割されるようにミシンで縦に縫ってあるんです。なぜだかわかりますか?」
と、4月の最初の授業で、先生が自己紹介代りの質問を投げかけた。毎年この質問をやってんだろうな……と思いつつも、引きつけられる質問であった。
「わかんない? ここにこうやって試験管が3本入るんだ。持たなくてもいいし、試験管立てもいらないし、便利でしょ」
うつむいて、中の液体をこぼさないように注意してくださいと思った。【参考文献】
・子どものどうして?に答える本 科学プロダクション コスポピア(丸善メイツ)
・渡る世間は謎ばかり 「女性セブン」編集部(小学館)
・すっごく役立つ雑学帳1 素朴な疑問探求会[編](KAWADE夢文庫)