● 第百七段 ● おが屑の中のエビ
大きなエビが、箱に6匹も入って贈られてきた。年末恒例のことだ。ただし、この恒例は、義理の伯母の家に起こることだ。義理の伯母の家は、家族が3人しかいないので、こんなに食べられるはずもない。だから、そのうちの何匹かは、我が家の食卓にのぼることになる。これも、毎年のことだ。ありがたい。
箱をあけると、エビがおが屑の中で、「キーキー」と鳴いている。まだ生きているのだ。
「う〜ん、忍びない。忍びないが、許せ!」
と、彼らをタコ糸で強力にグルグル巻きにする。以前に、鍋の中で凧糸がはずれて、エビが暴れて、熱湯をぶっかけられて、鍋がひっくり返って――そんなことにならないように、今回はいつもより余計にグルグル巻きにした。「キーキー」が泣いているように聞こえる。切ない。
最初から、熱湯だとエビもびっくりするだろうと思ったから、鍋には水を用意した。すこしずつ温度を上げていくことにした(そちらの方が、残酷かもしれないが……)。
今回は、きれいにゆで上がった。本当に鮮やかな赤だ。まだ、ゆでていないエビの色と比べると、かなり違っている。
「ほんとにきれいな赤色ね。どうしてこんなに赤くなるんでしょう」
と、伯母が独り言のように言った。
ゆでるとどうして赤くなるのか? これは、以前に稲田君に教えてもらったことがある。エビの殻に含まれる「アスタキサンチン」という色素のせいだ。この色素はタンパク質と結び付いているときには、青緑がかった茶色をしているのだが、タンパク質と離れると赤色になるという性質がある。
エビが生きている、あるいは、生(なま)の状態なら、アスタキサンチンはタンパク質と結び付いているのだが、ゆでるとこの結合がとけ、元の赤色に戻るのだ。ちなみに、カニをゆでても赤くなるが、あれも殻に含まれるアスタキサンチンの働きだ。
しかし、伯母が質問したときには、アスタキサンチンの名前が思い出せなかったので、
「熱いからでしょう」
と、答えておいた。それでいいと思った。
それよりも気になったのは、おが屑だ。どうしてエビは、おが屑の中に入れられて送られて来るのか。あの中が気持ちいいのか……。何か理由があるはずだ。
ちょっと考えたくらいではわからなかったから、稲田君に電話した。たぶん、これが今年最後の彼への電話になるだろう。
「すぐにはわからないけど、何かの本にあったような気がするから、調べてあとで電話するよ」
10分とたたないうちに、電話がかかってきた。
「エビがえらで呼吸しているのは、知ってるね……」
と、彼は説明を始めた。
エビのえらは、胸の内側にある。そのえらに生えている細かい毛は、水を吸い込む働きをする。だから水の中でなくても、えらが濡れてさえいれば呼吸は可能なのだそうだ。
「で、どうして、おが屑なの?」
「うん。おが屑は、えらの隙間をふさいで、えらから水分が出ていくのを防ぐ役目をするんだ」
「じゃあ、それ、おが屑じゃなくて、砂や土なんかでもいいの?」
「いいけど、それじゃ、荷物が重くなるだろうね」
「なるほど、エビを食べたときに、砂がジャリジャリするのも嫌だしね」
「そういうこと。洗うのも簡単だしね」
「でも、おが屑の中でも、やっぱり水分は蒸発しちゃうでしょう」
「完全に水分を保持できるわけじゃないからね。で、そうなったらえら呼吸ができないから、死んでしまうというわけさ」
ならば、どっちにしろエビは死んでしまうのだ。さっき忍びないと思った心が、すこしだけやわらいだ。
【メモ】
◆「おが屑」を全部漢字で書くと、「大鋸屑」。英語では、sawdust。
◆アスタキサンチンは、カロチンの一種。カロチンといえば、ニンジンやカボチャ、ホウレンソウに多く含まれている色素だ。動物の体内で変化して、ビタミンAを形成する。
◆カロチンにはα、β、γの3種類があるが、この中で最もビタミンAに変わりやすいのがβカロチン。先にあげたニンジン、カボチャ、ホウレンソウなどの緑黄色野菜に含まれているのが、βカロチンだ。
◆実は、アスタキサンチンも、同じβカロチン。殻も食べるべきだ!?
◆エビやカニのような甲殻類は、住んでいる周囲の色に応じて、あるいは、日中と夜間とで体色を変えるが、これは「サイナス腺ホルモン」の働き。このホルモンは、脱皮の抑制にも関係している。
◆風呂に入ると、肌が赤くなるが、あれはアスタキサンチンのせいではない。これは、血行がよくなって、流れる血液の量が増え、それが皮膚を通して赤く見えているのだ。
◆エビの背中にある黒い線のような腸管を、「背綿」という。砂を含んでいるから、調理するときには、くしでひっかけて取ったりする。
◆ヒゲクジラ類の仲間などが食べる、エビのような形の動物プランクトンを「オキアミ」という。これは、オキアミ目の甲殻類の総称だ。
◆クルマエビの体長は約25cm。黒褐色の縞模様が美しく、輪のように見えるところから名前がついたそうな。
◆愛知県の「県の魚」に指定されているのは、クルマエビ。
◆「袈裟固め」は柔道の技、「逆エビ固め」はプロレスの技。
◆井伏鱒二の『山椒魚』で、山椒魚を笑った生き物はエビ。
◆唱歌『春の小川』の2番の歌詞に歌われている生き物は、メダカとコブナとエビ。
◆京都名物の煮物料理に「芋棒(いもぼう)」がある。えび芋と呼ばれるサトイモの一種と、水に浸して柔らかくした棒ダラ(タラの干物)を煮つけたものだ。まだ、食べたことがない。
◆イタリア料理に使われる食材で、「スカンピ」といえばエビのこと
◆タイの代表的スープ、トム・ヤム・クンの「クン」も、エビだ。
◆神奈川県には「海老名市」、宮崎県には「えびの市」がある。
◆「エビの国」という意味の国名が付いた、アフリカの国はカメルーン。首都は、ヤウンデ。日本へは、綿花や木材を輸出している。
◆バショウ科の花に、「ヘリコニア」がある。その花の形から、英語では「偽のストレリチア」「ロブスターの爪」といった名前で呼ばれている。
◆ボストンで、名物のロブスターを食べたことがある。殻を割るための専用のはさみがあって、それが珍しかった。日本人向けに「ロブスターの食べ方」といったマニュアルが用意されていて、それがなんだか悔しかった。