・ 第百十一段の三 ・ 二十四節気「冬の部」
(この段は、第百十一段の二からの続きです)最後に、二十四節気がなぜ24あるのかについて、うだうだと想像してみたい。
こんなどうでもいいことは、わざわざ考えようと思わないと考えることもないことで、だからこそ、お金のかからないかつ危険を伴わない推理ゲームにはもってこいだ。今回は、一緒に探偵ごっこといきましょう。
二十四節気の発祥は中国。日本と違って大陸の一部である。しかし、地球の緯度から考えると、日本と同様に春夏秋冬の四季があることは確かである。
となると生活の中で、「この日から春」とか「今日から夏」といった季節のスタートとする日を設定するということは、とっても自然である。これが立春、立夏、立秋、立冬ということだ。
しかし、実際には「今日から夏」なんて日を決めるのは、とてもむずかしい。
「今日から夏だぞ!」
と、立夏の日を定めたところで、その前後の日だって、体感的にはそれほど変わらないからだ。だから、体感ではなく、天文学的に決定する必要がある。
そうなると、立春や立夏などよりももっとわかりやすい特別な日がある。それは、「思いっきり夏の日」と「思いっきり冬の日だ」。こちらの方が、きっと先に生活に取り入れられただろうと想像できる。もちろん、これらの日は、「とても暑かった、寒かった」などという気温なんかで決めるのではない。そんなのは同じ日付であっても天気に左右されてしまう。だから、どうしても太陽の動きで決めることになる。太陽をもっともたくさん拝める日が「夏至」、太陽に会う時間がもっとも短い日が「冬至」というわけだ。
夏至と冬至のちょうど中間点の位置にある日が、「思いっきり春の日」「思いっきり秋の日」で、これら日が「春分」と「秋分」と呼ばれている。昼と夜の時間が(ほぼ)同じになる日だということは、言うまでもない。
これで、春分、夏至、秋分、冬至が定義できた。さらに、それぞれの間の期間の中央をとれば、それぞれの季節の始まり――立春、立夏、立秋、立冬を定義できる。これらの8つの節目は季節を考える上ではとても重要であったというこは、想像にむずかしくない。
しかし、まだ8つである。二十四節気には、あと16も足りない。というよりまだ3分の1しかない。
そこで、とりあえず、1年間を8等分してみる。すると、それぞれの期間が約45日か46日になる。これは、生活する上で1つの期間としてはかなり長い。さらに細分化したくなるってもんだ(ちょっと強引?)。
では、単純に各期間を半分にして、1年を16の期間に分けたらどうか?
でも、実際にはそうはなっていない。なぜか?
これは「月」との関係にこだわったのだろうと推理できる。1年は12ヶ月ある。節目が16だと、これらをうまく各月に配分することができない。
だから、春分、夏至、秋分、冬至、立春、立夏、立秋、立冬の8つの節目と12の月、つまり、8と12の公倍数を採用することになる。ほら、近づいてきたぞ!
「公倍数」というのは、この場合だと、8の倍数でもあり12の倍数でもありという数のこと。24,48,72,96……
この中でもっとも小さいもの(最小公倍数)が、24。はい、できあがり。
【メモ】
◆「思いっきり春の日」ということから「思春期」を連想した。
■ 思春期 ■
青年期 adolescence とほぼ同義で、児童期から成人期へと移行する中間の時期をいう。ただし思春期というときは,青年の性的成熟に焦点が合わされる。つまり、小学校高学年ころから始まる二次性徴の出現(性徴)、それにすこしおくれて始まる異性への性欲的関心、異性への恋愛感情などに注目しての表現である。(平凡社世界大百科事典)
◆そういえば、昔、岩崎宏美は『思秋期』という曲を歌っていた。タイトルを初めて聞いたときは『刺繍機』だと思った。
◆では、さっそく二十四節気の「冬の部」。今回も、立冬、冬至以外の解説を。冬の場合は、小・大・小・大と並んでいるの、覚えやすい。
■ 小雪(しょうせつ) ■
太陽の黄経が240度に達するときで、新暦では11月22日ころにあたる。このころから北風が強くなる。
■ 大雪(たいせつ) ■
太陽の黄経が255度に達するときで、新暦では12月7日ころにあたる。平地にも雪が降るようになる。
■ 小寒(しょうかん) ■
太陽の黄経が285度に達するときで、新暦では1月6日ころにあたる。寒さがかなり厳しくなる。
■ 大寒(だいかん) ■
太陽の黄経が300度に達するときで、新暦では1月20日ころにあたる。一年でもっとも寒い時期。
◆「小寒の氷、大寒に解(と)く」という言葉がある。
一般的には大寒の方が小寒より寒い。この言葉は、大寒の方が暖かいと言っているのだから、何だか話が合わない。つまり、「物事というのは、いつも必ず順番通りに進むというものではない」ということを表しているのだ。
◆杉野君からクレームがついた。
1年間に24の節目を設けることについては概ねOKなのだが、なぜ、同じ8と12の公倍数である48や72ではだめなのかというのだ。さすが、鋭い指摘だ。
24でよくて、なぜ48ではだめなのか? 十日ほど考えてはたとひらめいた。
先に「月」との関係で推理を進めたが、こんどは「日」との関係で進めればいいのだ。
1年は、365日ある。これを約360日と考えると道が開ける。360日を分割するためには、360の約数であることが望ましいのだ。48では、360を割り切ることができない。だから、48は却下。
◆杉野君からクレームがついた。
「甘いと思います」
48がだめなのは納得できた。しかし、8と12の公倍数であり360の約数でもあるというのは、24のほかにも72や120、360もある。さすがに数が大きすぎて120や360を節目に採用しようとは思わないが、72なら「使える数」だと思う。
――というのだ。う〜ん、鋭い。
今回の推理を完璧なものに近づけるためには、どうしてもクリアしなければならない関門だ。よ〜し、何日かかっても解いてやるぞと、意気込んだのだが、この問題は案外簡単に解決された。というより、彼がまったく正しかった。
72の節目を設けるということが行われていたのだ(知らなかったけど)。「七十二候」というものだ。詳しくは、また別の機会に。
◆杉野君にこのことを伝えたら、とっても喜んで、
「やっぱりね」
と言った。