● 第百十三段 ● 拾ったら届けましょう
世の中には優しい人がたくさんいる。今までに何度助けられたことか。忘れた物、落とした物が戻ってくるのだ。ありがたいことだ。
傘をよく忘れる。しかし、傘くらいならあきらめることもできる。困るのは、かばんだ。現金、免許書、カード、鍵……、など大事な物ばかり入っているのだ。これを忘れた日には、悪用されていないかとどきどきする。
電車の中に忘れたことが何度かある。一度は、終点の駅で駅員さんに発見してもらった。乗客が気づいて、駅に届けてくれたということもあった。
デパートに買い物に行って、どこかにかばんを置いたままにしたこともあった。そのときは、お客さんがサービスカウンターに届けてくれていた。
こんなことが何度もあるものだから、自分が何かを拾ったときには、ネコババせずに必ず届けようと思っているのだが、なかなかそういう機会がない。思うに、世間の人は、それほどドジではないということか。
甚兵衛さんもネコババするような人ではなかった。彼は、兄の喜兵衛とともに、落し物発見のニュースをきちんと庄屋に報告している。
彼が見つけた物は、金印だ。1784年(天明4)2月23日、農夫の甚兵衛は、田んぼの溝を修理していた。地中に2人で持てる程度の大きな石があったので、それを持ち上げてみると、その下の石囲いの中に金印があった。これが、かの有名な「漢委奴国王」の5文字が刻まれた金印だったのだ。
金印のプロポーションについては、次の通り。重さ108.73g、体積6.06cm^3。印面は正方形で、1辺の長さは2.34cm。印の台の高さは、0.88cm。握りの部分は、蛇をかたどってあり、高さは1.31cmである。
さて、その後この金印は、黒田藩の儒学者によって、
「おお、これは、『後漢書』東夷(とうい)伝に載っている物ではないか!」
とされる。このときには、「委奴」を「いと」と読み、北九州の怡土(伊都・いと)国に比定してのだが、現在では「漢委奴国王」を「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読むのが最も一般的な説となっている。
『後漢書』東夷伝には、
「建武中元二年(西暦57年)倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武(こうぶ)賜うに印綬を以てす」
とある。つまり、後漢の光武帝が奴国に印と綬(印を下げる組紐)を与えたということだ。で、この金印がこのときの印ではないかというのだ。だとしたら、この金印は非常に大切な物だ。落としなり、忘れたりしたら一大事。にもかかわらず、土の中から出てくるなんて、おかしいんじゃないのと思う。「納められていた」という状況だから、大切には扱われていたのだろうけど、忘れられちゃったのかなぁ。発見されたのも200年以上昔の話だから、今となっては、正確な出土地点や出土の状況はわからないままになっている。まあ、そうだろ。
ところで、この金印、もちろん国宝に指定されている(1954年)。偽物じゃないの? という説もたくさん出されているのだが、今では一応本物であるということで落ち着いている。で、本物であるとして、金額にしていくらくらいの「忘れ物」なんだろう? こんなものを忘れてしまって、どれくらいドキドキするものか、金額に換算してみないと実感できない。今日(2008.3.4)現在の金のレート(買取価格)が3395円/gだから、金印がすべて金でできているとすると、材料費だけで369138円ということになる。
金印を自動販売機の下に落としてしまったら、絶対に、何がなんでも拾ってみせる。
【メモ】
◆金印の価値は、金としての価値だけではない。
「あなたは奴の国王です」
という権威の象徴なのだから、それはそれは大変なものだ。失うなんてこと考えるだけでも恐ろしいものなのだ。印鑑証明を取っている印鑑――この印鑑を大切な書類にいくつもついている――をなくしてしまったら、もしかしたら、よそで勝手に使われてしまうかもしれない。その恐怖を国家のレベルで想像すればよい。
◆甚兵衛さんは、黒田藩からご褒美として白銀10枚をもらっている。これについては、5両だとか50両、米1斗などいろんな説がある。上のことを考慮すると、安い褒美か。
◆印面の1辺の長さが2.34cmというのは、漢の時代の1寸の長さに適合している。
◆金印が発見された場所は、福岡県の志賀島。「島」という名前になっているが、今では陸とつながって、「海の中道」という半島になっている。
◆で、今、その本物は、福岡市博物館で展示・保管されている。
◆1356年、神聖ローマ帝国皇帝カール4世が発布した帝国法に、『金印勅書』がある。黄金の印璽(いんじ)を押したことからこう呼ばれている。皇帝選挙と戴冠の形式、選挙権を持つ7名の選帝侯を定め、その特権と義務について規定した。1806年、神聖ローマ帝国が解体されるまで効力を持っていた。
◆デマンド・バスというシステムがある。これは、バスの利用者が電話で司令センターを呼び出すと、センターから路線網を走るバスに利用者の乗車地点・下車地点を連絡し、バスが乗客を拾いに来るというシステムだ。まだ、利用したことがない。
◆大相撲では、結びの一番の後に弓取式が行われる。もしこの儀式の最中に、力士が弓を落としてしまったら、手を使わずに足で拾うしきたりになっている。
◆藤原定家の歌集は、『拾遺愚草(しゅういぐそう)』。「三代集」と呼ばれる勅撰和歌集のうちの代集」と呼ばれる勅撰和歌集のうちの1つだ。あとの2つは、『古今集』と『後撰和歌集』。
◆ミレーの名画『落穂拾い』で、落穂を拾っているのは3人だ。
◆童謡『森のくまさん』で、くまさんが拾ったものは、「白い貝がらの小さなイヤリング」だった。
◆「名も知らぬ遠き島より〜」と歌い出す『椰子の実』は、島崎藤村の作詩。民族学者の柳田国男が、椰子の実を拾ったという体験を藤村に話し、それをヒントに彼が作詩したものだ。
◆他人の利益のために危険を冒しことを、「火中の栗を拾う」という。フランスの詩人ラ・フォンテーヌの寓話から生まれた言葉だ。
◆「雁風呂(がんぶろ)」というのをご存じだろうか? 浜辺に転がっている木片を拾ってきて風呂をたき、人々にふるまったという風習だ。春の季語になっている。
◆雁風呂の風習は、ガンの供養のために行うとされている。これについては、少し説明が必要だ。
ガンは飛行で疲れた体を海上で休めるために、木片をくわえて飛ぶという伝承がある。これを発展させて考えれば、浜辺に木片があるということは、海を渡る途中でガンが命を落としたいうことを示している。
木片を一つ一つ拾い、一羽一羽のガンの冥福を祈るのだ。