● 第百十六段 ● ガム1枚ほどの軽さ
登山は好きではない。山道を歩くときのすがすがしい気持ちや、頂上に立ったときの征服感・達成感は、十分に想像できる。だから、登山を趣味としている人をうらやましいと感じるくらいなのだが、自分がやろうとは思わない。誘われても、多分、かなりのメリットがないかぎり、断るだろう。
しかし、ハイキング程度なら、つきあってもいい。ほんのすこし疲れる程度に歩いたあとの弁当は、うまい。絶対に、うまい。
「あのさ、弁当を食べたあとのリュックサックって、軽くなったように感じない?」
と、稲田君に尋ねた。
「弁当を食べてしまったんだろ? 軽くなって当然じゃないの?」
「いや、そういうことじゃなくて、弁当の中身は、腹の中にあるわけだから、体重とリュックサックの重さの合計ということでは、変わりがないでしょ。これって、質量保存の法則じゃないの?」
「でも、リュックは軽くなっている」
「そう」
「だから、軽く感じるんだよ」
「そんなもんかな……」
「それで思い出したんだけど、こんな話を知ってる?」
と、彼は次のような話をした。
――友人と一緒に登山をしていたら、その友人がへとへとに疲れてしまった。そこで、彼のリュックサックの中から、ガムを1枚抜いてあげた。そしたら、その分だけ荷物が軽くなったので、友人は元気よく再び山道を登り出した。
「ふんふん、面白い。つまり、こういうことだね」
と、こちらは次のように返した。
――ウェイトリフティングの選手が、重いバーベルを持ち上げている。拍手喝采、会場は盛り上がっている。そこへ、チョウが飛んできて、バーベルの上にちょこんと舞い降りた。その途端、この選手は加わった重さに堪え切れなくなって、バーベルを落としてしまった。
「重さの増減の違いはあるけど、だいたいそんなとこだね」
「でも、こんなことは、マンガの中でしか起こらないと思うけど……」
「ところで、『ウェーバーの法則』って知ってる?」
そんな法則は知らなかった。だから、教えてもらった。簡単にいうと、人間には、というか、生物には『感じる限度』があるってことらしい。
たとえば、目を閉じている相手の手のひらに50gの物体を乗せる。これが刺激になる。相手は「何かのせたな」と感じる。さらに、今度は「同種の小さめの刺激」、つまり、軽めの物体を静かに先の物体の上に乗せる。刺激が小さすぎると相手には感知されない。しかし、ある程度の重さを越える物体を乗せたときには、相手は感じ取ることができる。ここでは、その重さを3gとしよう。この50:3の比が維持されるというのが、ウェーバーの法則だ。つまり、この人の手に500gの物体があるときには、さらに30g以上の物を乗せないと重くなったとは感じられないというのだ。
先のウェイトリフティンクの例でいえば、持ち上げたバーベルに対して、チョウは軽すぎるから、選手がチョウの重さを感応できるなんてことは、ふつうでは考えられない。考えられないようなことが起こるから、マンガ的ということだ。
で、弁当の話は、どうなったんだろう?
【メモ】
◆チューイングガムの主な原料である「チクル」は、アカテツ科の「サポディラ」からとる天然樹脂。メキシコやグアテマラが主産地だ。
◆美空ひばりの『東京キッド』では、チューイングガムが左のポッケに入っている。ちなみに、右のポッケには夢が入っている。
◆「SAS」といえば、サザンオールスターズ。「BGB」といえば、バブルガムブラザーズ。
◆シンガポールでは、1992年1月から、チューインガムの製造、販売、輸入を全面的に禁止している。
◆「ガム」は英語で、gum。「ゴム」は、gum。そう、同じだ。ガムはいいけど、ゴムを噛むのはいやだなぁ。
◆「歯茎」も、gum。
◆ウェイトリフティングで使われるバーベルは、鋼鉄製のバーにゴム製のディスクが留め金で固定されている。バーのみの重量は20kg。ディスクにはいろいろな重量があり、いちばん重いもので1枚25kg。
◆ウェイトリフティングには、2種目ある。「スナッチ」は、ひとつの連続した動作でバーベルを一気に頭上に引き上げる。「クリーン・アンド・ジャーク」では、まず、バーベルをいったん肩の高さまで引き上げ、次の動作でバーベルを頭上にさし上げる。
◆「プレス」と呼ばれる種目もあったのだが、1972年のミュンヘン・オリンピックの後で廃止されている。
◆ウェイトリフティングは、体重によって、男子は10階級、女子は9階級に分けられている。オリンピックでは、女子の競技は行われていない。
◆勝者を決め方。スナッチ、クリーン・アンド・ジャークの順で、3回ずつ試技を行い、持ち上げた重量を合計し、それを得点とする。当然、得点の高い者が勝者。同じ階級で同じ重量を上げた選手がいた場合には、体重の軽いほうが勝者。
◆ウェイトリフティングの競技台のことを、「プラットホーム」という。4m四方ある。
◆国際ウェイトリフティング連盟(IWF)の事務局は、ハンガリーのブダペストにある。
◆■ 三宅義信 ■
1939〜、日本のウェイトリフティング界のスター選手。1960年のローマ・オリンピックのバンタム級で、銀メダルを獲得。以後も、東京、メキシコ、ミュンヘンとオリンピックに出場し、東京、メキシコではフェザー級で金メダルを取っている。世界選手権6連覇の記録を持ち、世界記録の更新は47回、「小さな超人」と称された。
◆重さや線分の長さ、音の高さなどの感覚の強さの差を感じる最小の値を「弁別閾(べんべついき)」(儚)というのだが、この弁別閾は、もともとの刺激強度(R)が増せば、それに比例して増すという関係がある。この比C(=儚/R、ウェーバー比)は、ある中程度の刺激強度の範囲内で一定である――というのが、ウェーバーの法則だ。
◆チョウがとまったからバーベルを落としてしまった――なんて話は「マンガ的」だと誰もが考える。ということは、こんなむずかしい式を考えないまでも、実感としてウェーバーの法則は理解されているということになる。