● 第百十九段 ● 本を読みたいので……
「両方でもいいですか?」
「えっ?」
うーん、これは予想しなかった質問だ。予想していたのはこうだ。
「どっちにしますか?」
そして、
「どちらからでもいいですよ」
と、すこし偉そうに答えるつもりだったのだ。
「偉そうに」というのには、理由がある。前に並んでいたおばさんが、腕を検査してもらったところ、どうも見つからないようなのだ……、血管が……。
「多分、これだと思うんですけどね……」
と係の人が言う。しかし、自信はなさそうだ。こっちは体温も測り終わって、ずいぶん待たされている。
「ちょっと待っていていただけますか……」
と、おばさんはついに後回しにされてしまった。で、おばさんの後ろでそのやりとりを見ていて、「偉そう」な気分になったわけだ。腕なら優等生だ。腕相撲も自信があるし、血管にも自信がある。どっちの腕から血を抜いていただいても問題ない。しかし、両方からとは驚いた。
申し遅れたが、これは、68回目の献血のときのエピソードだ。今回は、献血センターからじきじきに依頼があった。血小板の型が県内のどなたかと一致するそうなのだ。だから、今回は、目的の成分だけを献血する「成分献血」をしに来てほしいということだった。
血液中には、血小板はほんの少ししかない。これをたくさん採取しようと思えば、たくさんの血液を抜かなければならない。しかし、そんなことをすると死んでしまうので、必要な部分だけをもらってあとは体に戻そう――というのが、成分献血だ。
だから、成分献血では、(1) 血液を採取する、(2) 採取した血液を遠心分離する、(3) 必要でない部分を体に戻す――という流れで行われる。通常は、(1)〜(3)の流れを、3〜5サイクル行うようだ(今回は5サイクルだった)。
で、最初の質問だ。
「両方ってどういうことですか?」
「片方の腕から採血して、もう片方の腕に戻すのです」
「そんなことができるのですか?」
「できますよ」
「それをすると、時間が短縮できますか?」
「少しは……」
「でも、本を読みたいのですが……」
「じゃあ、片方だけにしましょう」
しかし、「必要な部分だけもらって、あとは体に戻す」という発想はすごいと思う。今回は結局、(1)の採血と(3)の返血は、同じ管を使って行われたから(そうじゃないと、針を2ヵ所も刺さないといけない!)、管を血液が行き来する様子がよくわかる。「わかる」と言っても、血液の流れを目で見てわかるだけであって、体内の血が増減を体温として感じるとか、活力として感じるとかいう能力は、自分にはない。鈍感なのだ。もちろん、血の増減を活力として感じることができる人もいる。実際、となりで献血をしていたお姉さんは、途中で気分が悪くなってしまっていた。
さて、おばさん。気になって、献血が終わるまで75分間も待ったのだが、部屋には現れなかった。
【メモ】
◆人間の血管を大きく3つに分類すると、動脈、静脈、毛細血管。
◆毛細血管を発見したのは、イタリアの生理学者マルピーギ。彼は、顕微鏡を使って、昆虫の気管、植物の気孔なども発見している。
◆ダイナマイトの原料として有名なニトログリセリンは、血管を広げる作用があるので、狭心症や心筋梗塞の薬として使われることがある。
◆脳の血管の外側で脂肪やタンパク質などのごみを掃除してくれる細胞のことを、発見した日本人の名前にちなんで「マトウ細胞」という。
◆血液のことについて書くときりがないので、今回は献血の知識を少し広げよう。その上で、献血に御協力いただけるとありがたい。しかし、年齢制限がある。日本で献血のできるのは、満16歳以上満64歳までだ。
◆体重制限もある。たとえば、200ml献血する場合なら、男性は45kg以上、女性は40kg以上となっている。
◆日本で行われている献血の方法は大きく分けて成分献血と全血献血。成分献血には血漿(けっしょう)成分献血と血小板成分献血、全血献血には、200ml献血と400ml献血がある。
◆一度献血すると、再度行うまでにある程度の間隔を必ずあけることになっている。これも、献血の種類によって細かく決められている。
◆時間がない……、でも献血には協力したいという人は、200ml献血。これがいちばん早く終わる。
◆成分献血は、時間がかかるから覚悟しておいたほうがよい。両腕方式にしてもテレビぐらいは見ることができるから、時間はつぶせる。しかし、やはり両腕はやめてよかった。鼻の頭も掻けない。
◆カジノで俗に「片腕のギャンブラー」と呼ばれるゲームは、「スロットマシン」。「片腕のエース」と呼ばれているのは、アメリカ大リーグのジム・アボット投手。
◆樋口一葉が書いたのは『たけくらべ』、永井荷風が書いたのは『腕くらべ』。彼は、一時期「三遊亭夢之助」と名乗って落語家としても活動していた。
◆アクセサリーで、手首から腕に二重三重に巻き付ける金色の腕輪を、「バングル」という。
◆肘と肩の間は、「二の腕」
◆力こぶを作る筋肉は、「上腕二頭筋」。
◆『ポパイ』は、腕に錨(いかり)の入れ墨をしている。
◆銀河系は渦状の構造をしているが、その中で、太陽系を含んでいる部分は「オリオン腕」と呼ばれている。
◆画家アングルがバイオリンに関して玄人はだしの腕前を持っていたことから、フランスでは芸術家の隠し芸のことを「アングルのバイオリン」というそうな。
◆腕を大きく回すソフトボールの投球方法は、「ウィンドミル」。「風車」という意味だ。
◆小学校の校庭には、よく「うんてい」と呼ばれる遊具がある。オランウータンのように、腕で木にぶら下がりながら移動して遊ぶあれだ。このような移動方法を「ブラキエーション」という。
◆両腕を前に出したり、頭や腰に手を当てたりしながら、4分の1回転することを繰り返す――これをラテンビートにのって、腰でリズムをとりながら行うと「マカレナ」というダンスになる。
◆本文で紹介したおばさんは、受け付けで身長を聞かれて、
「どちらでもいいです」
と答えていた。どうも、200ml献血か400ml献血かを聞かれていると思い込んでいたようだ。あわてた受け付けの人は、質問の形を変えた。
「いえ、あの、身長はどれくらいですか?」
「じゃあ、今日は400で……」
人の話を聞かない人だ。笑うのをこらえて、血圧が上がってしまった。
◆じつは、最近、献血をしたくても、断られてしまう。
過去、何年間かの間にイギリスに行ったことのある人は、だめだと言うのだ。何がどうだめなのか、きっちり聞いておけばよかった。