★雑木話★
ぞうきばなし

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 ● 第百一段 ●  土・日・祝祭日はダメよ

 東大寺大仏殿の裏手は、大好きなハイキングのコースの一つだ。大仏殿の前はいつも拝観者で賑わっているのだが、裏手の人出はそれほどでもない。それがいい。
 先日もそのあたりを歩く機会があった。雲一つない空をバックにした大仏殿もよかったし、紅葉もすばらしかった。が、なんだかおかしい。人の行列がある。何だ?
 行ってみると、「宮内庁」と書かれた腕章をしたおじさんがいた。
「もしかして……、正倉院?」
 正倉院なら宮内庁の管轄だし、おじさんが立っている理由もわかる。しかし、確か正倉院は、1年のうちでもある決まった期間しか見ることができなかったはずだ。
「ラッキー! 今日がその日なんだ。一目見てから帰ろう」
 と、勝手に決めつけておじさんの前を通った。生まれてはじめて見る本物の正倉院だ。何だかワクワクする。柵が設けてあって、それ以上近くで見ることはできなかったが、全容は十分に見学できた。
 床下の高さは、2m72cm。ここには4×10本の束柱があり、倉を支えている。間口33m72cm、奥行き9m39cm、総高13m72cmで、日本最大の校倉(あぜくら)である。校倉というのは、三角材・丸材・角材などを井桁に積み重ねてつくった倉のことだ。
 おじさんに聞いてみた。
「正倉院って、特別の期間しか見ることができないって聞いてたんですが、今日がその日なんですか?」
「いいや」
「それじゃ、今ちょうど国立博物館で『正倉院展』をやっているんで、その期間だけ見ることができるとか?」
「いや。土・日・祝祭日以外の日だったら一年中見れるよ」
「えっ! 確か以前は、そんなふうじゃなかったですよね」
「ああ、昔は春の5日間と秋の正倉院展の期間だけだったね」
「いつからそうなったんですか?」
「93年の4月1日からだよ」
「そうだったんですか。知りませんでした」
 だったら、今日しか見ることができないと貴重に感じることもない。あまり時間もなかったし、今回は、校木に注目することにした。
 さて、この校木、断面は正三角形だと思い込んでいたのだが、よく見るとニ等辺三角形だった。で、この三角材、どれほどの大きさかご存じだろうか。高さ(ニ等辺三角形の底辺)は30cm、幅(ニ等辺三角形の高さ)は31cm、長さは12m前後と、かなり大きいのである。実物を見ても、数字を聞いても驚いてしまった。
 小学校のときに、校倉造りは、倉庫の建築方法としては非常に優れたものであると習った。空気が乾燥しているときには、校木と校木の間にすきまができて風通しがよくなる。逆に湿っているときには、校木が水分を吸って体積が増し、すきまがなくなり、外気を遮断するというのだ。しかし、本物の正倉院を見て、この説には少し疑問を持った。
 乾燥するとすきまができるというが、校木はただ積み重ねてあるだけなので、校木が完全に密着するように精巧に加工されていれば、木材の空気の乾湿にかかわりなく、いつだってすきまなどないはずである。
 また、湿度が高いときにはすきまがなくなるというが、校木の加工の精巧さはどれほどのものなのか。すきまのある部分もあるはずだし、扉の部分などは現在のサッシ以上に外気の遮蔽(しゃへい)に優れているとは思えない。
 なんてことをうだうだ考えてはみたが、これらの木材が1200年の歳月を生きて、今ここにあると思うと、やはりぞくぞくしてしまったのだった。
 もうすぐ冬だ。


【メモ】

◆玄海灘に浮かぶ沖ノ島は、「
海の正倉院」と呼ばれている。朝鮮半島や中国、ペルシャからの舶載品を含む出土品が大変多いことからのネーミングだ。また、この島はいまだに女子禁制の島であり、古墳時代から奈良・平安時代にかけての遺跡も多く存在する。

◆奈良の正倉院は、1棟が北倉、中倉、南倉に仕切られてあり、北・南倉が有名な校倉造りだ。中倉は単なる「板倉造り」。

◆校倉造りは、日本独特のものではない。中国、朝鮮、北欧、スイス、ロシア、北米、南米などの木材の豊富な地域にみられる。

◆現存する奈良時代の校倉は、数少ない。正倉院の他には、東大寺に3棟、手向山(たむけやま)神社(奈良市)に1棟、唐招提寺に2棟、計7棟だけだ。

◆「正倉」とは、租税である米や絹、鉄などを保管しておくための「主要な倉庫」という意味。この正倉が棟を並べる区画が「正倉院」。だから、これは普通名詞だ。奈良時代には、平城京の大蔵省、内蔵(くら)寮や多くの大寺に正倉院が設けられた。つまり、全国に正倉院はあったのだ。

◆しかし、長い年月の間に、東大寺以外の正倉院は姿を消してしまった。また、1875年(明治8)からは、国の管理下におかることになりることになり、すっかり固有名詞の「正倉院」になってしまった。

◆756年6月21日。
聖武天皇の死後49日にあたるこの日に、光明皇太后が彼の遺品(書跡、服飾品、調度品、楽器、刀剣など)を東大寺の本尊である大仏に寄進した。これが、現在の正倉院の始まり。

◆聖武天皇の遺品が納められているのは、北倉。中・南倉には、東大寺の諸行事に関連した品々が納められている。

◆正倉院は、皇室の財産としては初めて国宝に指定されている。指定を受けたのは、1997年5月19日のこと。案外最近のことだったんだ。

◆平安時代中期以降、宝物の利用は非常にまれになった。宝庫が開かれるのは、有力者の宝物拝見、宝庫の修理、盗難事件の後の宝物の点検に限られていた。

◆1019年、時の太政大臣藤原道長が、権力に物言わせて正倉院を開かせている。有力者が宝物を見るのは、これが最初。

◆現在では、権力を振りかざさなくても宝物を見ることができる。毎年秋に、奈良市の国立博物館で『正倉院展』が開かれているからだ。最初に開催されたのが1946年というから、もう50年以上も続いている。

◆見ることはできるが、手にするのは非常にむずかしい。
 中倉に納められている黄熟香(おうじゅくこう)は、古くから正倉院の最高級の香木として著名であった。これは、雅名を「
蘭奢待(らんじゃたい)」と呼ばれ、1465年に室町幕府8代将軍足利義政が、1574年には織田信長が一部を切り取っている。その跡がちゃんと残っているのが面白い。

◆「蘭奢待」は、「東大寺」の字形を隠した呼び名。見つけられるかな? 分かった人は、メールちょうだい。

【参考文献】
 ・東大寺と正倉院  守屋弘斎・児島健次郎  雄山閣


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