● 第十九段 ● インドの円
友人の稲田君の車には、方位磁石がある。バックミラーの左横にかわいく付いている。
常に視界に入っているのがいい。走り慣れた道ではあまり役に立たないが、知らない土地や真夜中の山道などではその実力を発揮する。道に迷ったときでも、方角が分かっていれば安心できるのだそうだ。
「そんなの、カーナビ積んでたら、必要ないよ!」
その通りなのだが、これはこれで、カーナビにはない「何か」があるような気がして「いいな」と思っている。
彼が使っている磁石は、直径2cmほどの球体が水の中に浮かんでいるようなものである。車が北に向かって走っているとき「北」と書いてある方がこちら側を向く。交差点にきて、右に90度曲がると、磁石は「東」を正面にする。このとき、磁石が「北」から「東」に回る様子が面白くて、角を曲がる度に見てしまう。
彼は、もうそんなことには慣れているのか、興味がないのか、気にしている様子はない。もっとも、交差点を曲がるときに、磁石の回転を凝視しているようでは事故になってしまう。
今、「回る」という表現をしたが、本当をいうとこの磁石は回っていない。自動車が角を曲がったのであって、磁石はじっとしていただけなのだ。しかし、磁石だけを見ていると、どうしても磁石が回っているように感じてしまう。地動説がなかなか受け入れられなかったのも分かるような気がする。
もう一度、車が北に向かって走っていると仮定する。ドライバーには、「北」が見えている。このとき、車の前にいる人には「南」が見える。では、車の東側に立ち、この磁石を見ると何と読めるか?
答えは「西」。つまり、普通の方位磁石とは全て逆だということだ。考えてみれば、それほどむずかしい構造というわけではない。
一般の方位磁石 北 車内用の方位磁石 南
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西―+―東 東―+―西
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南 北中国の宋の時代の書物『武経総要』には、「指南魚」の記述がある。磁針を木製の魚の腹に浮かべ方位を知るというものだ。これが12世紀にイスラム経由で西方に伝わり、1302年(1310年とする説もある)、イタリア人のフランヴィオ・ジョーヤが、磁針を一支点で回転させる形のものを開発する。これが「羅針盤」と呼ばれるものだ。季節風の発見と時代のタイミングが一致し、大航海時代の幕明けとなるのである。
世界で最初に磁石の指極性が発見されたのは中国である。漢の時代には実用されていたとの主張もある。では、それ以前はどうやって南北を決めたか。方法はあったはずだ。第十七段でも述べたように、ピラミッドなどは正確な方位をもとに建築されているのだから。
「正午の時報のときの太陽の位置を見る。太陽がある方向が南で、反対側が北」
「甘いな、その考えは。方位磁石のなかった頃に、時報があるわけがない」
瞬く間に稲田君に否定されてしまった。
彼の言う通りだ。もし何かの鐘が正確に時を告げたとしても、その時刻に太陽が南中しているとはかぎらない。では、どうするか?
稲田君に、「インドの円」と呼ばれている方法が教えてもらった。簡単な方法だ。棒が1本あればいい。
まず、棒を地面に垂直に立てる。棒を中心にして、地面に円を描く。日の出のとき、棒の影と円との交点に印をつける。日の入りのときも同様に印をつける。この2つの点を結んだ直線の方向が東西、これと直角に交わる方向が南北を示すというわけだ。
現在の方位磁石では、赤く塗られている針は北を指すように作られている。つまり、北を重要としているわけだ。しかし、「指南」という言葉がある。言葉だけは、今でも使われている。いつから「指北」になったのだろう?
【メモ】
◆北海道でレンタカーを借りて、札幌の羊ヶ丘公園を目指していた。
そのレンタカーはカーナビが搭載されていたので、言われるままに走っていたら、
「あなた、何しているの? 入り口すぎちゃったわよ!」
と、由希子。
おかげで、クラーク博士の銅像に会うのが遅れてしまった。
◆カーナビのデータは、新しい方がいい。
せっかくすぐそこに高速道路ができたのに、反応してくれない。
◆「インドの円」は、理論的にはうまくいく。しかし、実際にやろうとすると、悪条件がいくつも出てくる。山などの障害物、悪天候、夜……。
北極星を使った方が楽のような気がする。
◆中国や日本では、方位は12等分され、十二支を使って方位を表していた。だから現在でも、経線のことを「子午線」という。「子」は北を、「午」は南を表している。
緯線にも別名はあるのだが、むずかしくて知られていない。卯酉線(ぼうゆう線)だ。「西」と「酉」は、形がよく似ている。関係があるのか、ないのか。北
北西 北東
乾 子 艮
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西 酉―+―卯 東
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坤 午 巽
南西 南東
南
◆六歌仙の一人である喜撰法師の歌が、小倉百人一首の中にある。
「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」
「たつみ」というのは、南東の方角のこと。宇治は、現在でも京都の南東にある。「うぢ」は、「憂し・宇治」の掛詞。
◆巽(たつみ)さんや乾(いぬい)にはお会いしたことがあるが、艮(うしとら)さんや坤(ひつじさる)さんにはお会いしたことがない。
◆『うしおととら』なら、全巻読んだ。
1990〜96年まで「週刊少年サンデー」に連載されていた藤田和日郎のマンガだ。
◆昔から北の方角に頭を向けて寝ると縁起が悪いというが、これは釈迦が北枕で息を引き取ったことによるといわれている。
◆身分の高い人の妻のことを「北の方」という。寝殿造りの邸宅で、北に位置する部屋に住んでいたことに由来している。
◆大相撲で「向こう正面」といったら、南。
◆エジプトで「河(ナイル)を下る」といえば、北。
◆南極点に立つと、どの方向を向いても北だ。変だ。【参考文献】
・世界史用語集 山川出版社